1|
中国古典での使用例
中国古典での保険という用語の使用例としては、著名な漢和辞典である諸橋大漢和辞典につぎの2例が紹介されている。
ひとつは、3世紀の、倭人伝で有名な魏志の中の鄭渾伝の記載である。
ここには、「保険自守、此示弱也」(険を保ち自ら守るは、これ弱きを示すなり=要害の地に立てこもり、守勢にまわるのは、敵軍に自らの弱さを示すようなものだ)という一文がある。
もうひとつは、7世紀の、聖徳太子による遣隋使の国書の記載(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや)で有名な隋書中の劉元進伝の記載である。
「其余党、往往保険為盗」(その余党、往往険を保ち盗みを為す=その残党は、いたるところで要害の地に立てこもり、盗みをはたらいた)とある。
いずれも、「険しい要害の地(険)に立てこもる(保)」という意味であり、現在の保険の意味は表していない
5。
2|
ロプシャイト英華辞典での使用例
英語のinsuranceに保険という訳語が取り入れられたのは、中国の清末(19世紀後半)である。
清でキリスト教伝道に尽力したドイツ人宣教師ヴィルヘルム・ロプシャイト(Wilhelm Lobscheid、中国名は羅存徳、1822~1893)が著した「英華字典」にこの訳語が示されている(なお、ロプシャイトは、1855年の日米和親条約締結の際、米国側の通訳として来日している)。
英華字典は、英名を"English and Chinese Dictionary with the Punti and Mandarin Pronunciation"(広東語および北京官話の音韻による英華字典)といい、全4部、英単語5万語を収録した大著で、第1部(A~C)は1866年、第2部(D~H)は1867年、第3部(I~Q)は1868年、第4部(R~Z)は1869年に香港で発行された
6。
同字典では、insuranceを「保険」と訳し、また、insuranceの発音から、「燕梳」(yin so)と当てている。
さらに、Insurance companyを、保険会、燕梳会、担保会、保険公司と、Insurerを保険者、保険公司と訳している。
なお、明治時代の哲学者として著名な井上哲次郎(1856~1944)は、ロプシャイト英華辞典の和刻本として、『羅存徳原著、井上哲次郎訂増 英華字典』を刊行した(1883~1885年)。
前述の諸橋大漢和辞典には、保障制度を意味する保険という用語の使用例として、清の孫詒讓(そんいじょう)著「周礼政要」(1886年)における、「察各国貨物鎖售水陸転運銀行保険出入税」を示しており、現在でも使用されている銀行と保険という用語が併記されていて興味深いが、これは英華字典が発行されてから約20年後の使用例である。
5 諸橋轍次『大漢和辞典』、大修館、1968年10月1日縮写版第二刷。
6 宮田和子『英華辞典の総合的研究-19世紀を中心として』101~112ページ、白帝社、2010年3月。