そもそも、「世界も元々は左側通行」だった。
これは、人間に右利きの人が多い中で、徒歩や乗馬で道路を進む場合、前方からの攻撃等に対して、身構えやすいという理由によるものである
3。さらには、英国の馬車と同じ理由や、前回の「
研究員の眼」で述べた日本において歩行者や車が左側である理由も、例えば武士や刀を騎士や剣に置きかえて考えれば、同じように当てはまることになる。
いずれにしても、左側通行には、十分に合理的な理由があった。
それが、その後の各種の状況を経て、各国が右側通行に変更していくことになった。この理由についても諸説あるようだが、ここでは代表的と思われるものを紹介しておく
4。
まずは、欧州においては、先に述べたような、左側通行の合理性を踏まえた上で、ある教皇が「欧州における道路使用者は、身の安全のため、左側通行すべし」との命を出していたが、これに対して、18世紀のフランス革命時に、反カトリックのロベスピエールにより、「左側通行はキリスト教の定めたものだから廃止すべし」ということで、右側通行に変更された。
なお、当時、軍隊も左側通行をして、敵に対しては、左側から攻撃していた。槍や剣を右手に持った騎士同士が戦う場面では、左側から相手に近づいて、戦闘が行われていた。
こうした伝統的な戦法に対して、ナポレオン
5が、主力部隊を右側に配置して、敵軍と戦い、多くの戦争で勝利した。ナポレオンは、この戦法を効果的にするために、兵士と車両が道路の右側を通行するように命令した。これによって、フランスでは右側通行に変更された。
その後、当時の大国フランスの影響を受けて、ナポレオンが征服した地域や陸地続きの多くの欧州大陸諸国が右側通行になっていった。なお、ナポレオンに抵抗して左側通行を維持していた国々も、(1)ポルトガルは、実用的な観点を考慮して1920年代に、(2)旧オーストリア・ハンガリー帝国の諸国は、ヒットラーに支配されて、それぞれ右側通行に変更している。
これに対して、島国であった英国は、ナポレオンの支配も受けず、フランスへの対抗心もあったことから、伝統的な左側通行のままを維持して、今日に至っている。
なお、新興国だった米国は、独立戦争後に、英国の植民地時代の影響を捨て去ることを希望していたことに加えて、独立戦争時にフランスの援助を受け、フランスを中心とした欧州からの移民が増加していたことから、1792年にペンシルバニア州で、1804年にニューヨーク州でという形で、順次右側通行の法定化が行われていった。
なお、こうした説に対して、欧州大陸や北米大陸等では、馬車で移動する距離が長かったので、多頭立ての馬車が主流であり、この場合、両側の列の馬を操るためには、御者は左側に座る必要があったため、大陸では右側通行になったとの説もある。
いずれにしても、自動車が普及してくると、米国で生産され、海外に輸出される自動車が右側通行に適する左ハンドルであったため、中国を初めとして、多くの国が右側通行に変更していった。
3 なお、これに対して、馬に乗っている人の鞭から逃れるためには、右側通行の方がよいとの考え方もあるようである。
4 ここでの記述は、以下を参照させていただいた。Worldstandards「Why do some countries drive on the left and others on the right?」、マイケル・バーズリー「左ききの本」TBS出版会(1973年)、R.H.Hopper「左-右:なぜ運転ルールは違うのか(left-Right Why driving rules differ)」(人と車:1983年2月)
5 なお、この背景に、ナポレオンが左利きだったという事実があったから、と言われている。