韓国政府が日本の介護保険制度を参照しながら、老人長期療養保険制度を設計する際に、最も慎重に検討したのは、「財政安定」と「人材確保」のことだろう。つまり、どうすれば国の財政負担を最低限に抑えながら、制度を長く維持することができるのかと、どうすればサービスを提供する人材を育成し、市場に供給することができるのかに関心が集中していたと考えられる。そこで、韓国政府は日本でも議論はあったものの、実施までには至らなかった「全公的医療保険加入者の被保険者化」や「家族介護に対する現金給付の支給」を実施するとともに、「サービス利用時の自己負担割合」を日本より高く設定することにより、財政の安定と人材の供給不足を解決しようとした
11。
韓国では療養保護士という資格を取得した人が事業所に登録して家族を介護すると、現金給付が受けられる。制度の導入初期に介護を担当する人材が不足することを懸念した取り組みであり、ドイツの事例を参考した。但し、韓国における現金給付の利用は、島嶼、僻地等長期療養施設が足りない地域に居住している者、長期療養施設が実施するサービスの利用が出来ないと判断された者、身体・精神・性格等の理由で家族が介護を担当する必要がある者等に制限されている。家族から提供される介護サービスを利用する受給者には現金給付として1ヶ月当たり15万ウォンが支給される。これは療養保護士の月平均賃金130~150万ウォンに比べると、かなり低い金額である。つまり、韓国政府はすぐには療養施設が設立できない地域で家族現金給付を許可することにより、人材を確保するとともに老人長期療養保険の財政支出を抑制することができたのである。今後、介護労働者の賃金水準や勤労環境を改善しながら、現金給付の水準を見直す必要はある。
在宅介護に対して現金給付を実施しているドイツの場合も、現金給付の上限額を現物給付より低く設定することにより介護給付の総支給額を抑制している。しかしながら、韓国における家族に対する現金給付額はあまりにも低く、他の給付を同時に利用することができない。より現実的な給付が行われるように制度を改正する必要がある。
日本でも介護保険制度を導入する前に現金給付の導入に対する議論があったものの、介護の社会化が重視されるなかで、家族に対する現金給付は「家族を介護に縛り付ける」といった反発が強く導入には至らなかった。しかしながら介護保険の導入初期と比べて日本の状況は大きく変わっている。つまり、2000年に17.3%であった高齢化率は、2014年には24.0%まで上昇した。また、2000年に1.36であった合計特殊出生率は2015年には1.46に少し改善されたものの、まだ人口の置き換え水準である2.07を大きく下回っており、このまま少子高齢化が進むと、労働力不足により将来の日本経済の成長が阻害されることが懸念されている。また、介護保険の総費用は2000年度の3.6兆円から2012年度には8.9兆に2倍以上にも増加しており、国の財政を圧迫する要因になっている。また、65歳以上高齢者の保険料も第1期(2000~2002年度)の2,911円から第6期には5,514円(2015~2017年度)まで増加しており、高齢者の負担もますます大きくなっている。高齢者の所得水準を考えると保険料の引き上げは限界に近づいていると言えるだろう。
そこで、ドイツや韓国が導入している現金給付を日本に導入することは労働力の確保や財政の支出抑制という面からある程度効果があるかも知れない。現在の日本の介護保険制度は、介護ができる家族(配偶者、子など)がいる場合でも、介護保険制度を通じて1割
12の自己負担で家族以外の他人から介護してもらう仕組みである。つまり、「介護保険」という制度に加入(40歳を超えると自動的に)することにより介護というサービスが必要になったときに、等級別の上限額はあるものの介護というサービスを9割割引された金額で購入でき、そこから効用が得られる。この効用は制度を利用したからこそ得られるものであり、家族に対する現金給付が実施されていない状況の中で、その大きさは家族から同じサービスを提供してもらった時の効用の大きさを大きく上回る。その結果、介護保険制度に対する需要は増える一方、家族介護に対する需要は減ることになる。しかしながら家族介護に対して現金給付を支給すると、両者の間に発生していた効用の格差が縮まり、家族で介護が可能な家庭もあることを踏まえれば家族以外の他人に偏っていた需要が一部は家族に戻るようになるだろう。たとえ、家族介護に対する現金給付が現物給付の水準に至らなくても、家族から介護をしてもらうことの効用がその差をある程度縮めてくれると考えられる。しかしながら家族介護に対する現金給付があまり効果的ではない場合も存在する。たとえば、日本の離島・僻地など過疎地域には民間の介護施設が進出しておらず、そもそも介護サービスを十分に利用できないケースが多く、都市部との介護格差が問題になっている。さらに、これらの地域には高齢化率が高く、介護サービスが提供できる家族もいない世帯が多いので、家族介護に対する現金給付のメリットを生かすことはなかなか難しい。どうすればより多くの人が制度の恩恵が受けられるのか、知恵を絞る必要がある。
また、被保険者の範囲についても検討すべきである。介護保険創設時に介護保険の被保険者を40歳以上とした理由は、(1)40歳以上になれば、初老期における認知症や脳卒中などの加齢に伴う疾病による介護ニーズ発生の可能性が高くなることと、(2)40歳以上になれば自らの親も介護を必要とする可能性が高くなるので、費用を負担しても理解を得られることであった。しかしながら、高齢化はさらに進んでおり、高齢者の負担や給付費が増加し続けている現実を考慮すると、支え手である被保険者の拡大を考える必要があり、議論を十分に尽くすべきである。
さらに、海外の制度を参考にサービス利用時の自己負担割合や介護等級の見直しを慎重に考慮すべきである。
11 但し、日本では重度(要介護度4または5)の低所得高齢者を介護している家族を慰労する目的で、家族介護慰労金が支給されている(例えば東京都新宿区の場合は年額10万円)。慰労金を支給されるためには、次の条件を満たす必要がある。
・高齢者が介護保険の要介護認定で、1年間を通じて要介護4または要介護5と認定されている。
・高齢者が要介護認定後、1年間介護保険のサービスを利用していない。(年間1週間程度のショートステイ利用を除く)
・高齢者、介護者とも住民税非課税世帯である。
・介護者が高齢者と同居、もしくは隣地に居住するなど事実上同居に近い形で介護している。
12 2015年の8月から、65歳以上の所得上位20%にあたる年間所得160万円以上の方が、介護保険のサービスを利用する時の自己負担割合は2割に引き上げられた。
5――おわりに