日本において、「人的資本経営」が重要視されるようになっている。経済産業省によれば、「人的資本経営」とは人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値の向上を目指す経営手法である。従来の年功序列や終身雇用といったシステムにおいては、勤続年数や社内経験が重視されてきたが、技術革新の加速や労働市場の流動化に伴い、個々のスキルや能力をいかに引き出し、それを企業価値へと転換するかが重要な課題となっている。
このアプローチは、IT企業やスタートアップをはじめとして、幅広い業種で採用されている。業態を問わず、AIやデータサイエンスなどの専門スキルが企業の競争力を左右する時代において、人的資本の質が企業価値を左右する重要な要素として評価されるようになりつつある。高度な技能を持つ人材の育成が企業価値向上のための鍵と見なされているのである。特に技術革新の激しい分野では、従業員の専門知識やスキルが競争力の中核を担うことから、人的資本をいかに有効に活用するかが経営の重要なテーマとなっている。
例えば、製造業では、技術者や現場の従業員が持つ専門知識や技能が企業の競争優位を築くための重要な資産とみなされる。生産プロセスの効率化や品質管理において、従業員の技能向上が企業全体のパフォーマンスに直結するケースは多い。サービス業においても、従業員の接客スキルや顧客対応力が企業のブランド価値を高める重要な要素となる。金融業界では、データ分析やリスク管理などの専門スキルが企業の競争力を左右する要因になる。
賃金・報酬制度においても、企業価値と連動する仕組みに変更する流れが広がりつつある。東京商工リサーチの調査
1によれば、「定期昇給」を実施した企業の割合は74.2%と4年連続で減少している一方、「ベースアップ」を実施する企業の割合は61.4%と3年連続で増加し、過去最高を更新した。定期昇給とは、従業員個人の勤続年数や年齢といった要素に基づき、自動的に賃金が引き上げられる制度である。これに対し、ベースアップとは、企業業績や社会・経済情勢に応じて賃金水準を全体的に引き上げる仕組みを指す。定期昇給が個人の属性に依存するのに対し、ベースアップは企業全体のパフォーマンスに影響を受けやすいという特徴がある。
さらに、従業員個人の特定のスキルや資格獲得、リスキリングに対してインセンティブをもたせる制度を導入する動きも加速している。例えば、特定のスキルの取得・維持に応じて昇給・昇進する制度、国家資格や社内資格などの獲得に対する手当の支給、株式報酬制度(譲渡制限付き株式やストックオプションなど)、営業利益などの業績指標にリンクした業績連動型の賞与支給、社内外の研修プログラムの提供、大学・大学院などの学費補助、自己啓発目的の長期休暇(サバティカル休暇)の付与などが挙げられる。業態間で特徴に違いはあるものの、これらの取り組みは単に賃金や報酬の魅力を高めるにとどまらず、企業価値向上を目指した人的資本の活用と密接に関わっている。
一方で、家計における「人的資本」の捉え方も重要である。家計のバランスシート理論では、家計(個人や家庭)を一つの経済主体として捉え、資産と負債のバランスを分析することで健全な資産形成を目指す(図表)。この理論において、人的資本とは、家計が持つ属性、スキル、知識、経験などをもとに将来にわたって得られる稼得能力の現在価値を指す。人的資本は資産形成の起点とされ、退職までの時間が長いほど重要な要素になる。そして、この人的資本を金融資産や実物資産へといかに転換していくかが課題となる。報酬制度の変化に対応して、リスキリングや学び直しを通じてスキルや能力を向上させることは、家計にとっても人的資本の維持・拡大につながり、最終的に資産形成を促進する意義を持つ。