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ギグワーカーの社会保険適用問題-もう1つの”労災保険”の出現

2025年05月13日

(片山 ゆき) 中国・アジア保険事情

基礎研レター「ギグワーカーの社会保険適用問題‐中国フードデリバリー大手美団の取組み」(2025年4月16日発行)では、プラットフォーマー(企業側)が雇用契約のないドライバーに対して年金保険料の半額を補助し、老後の生活への備えを支援する取組みを紹介した。このような取組みは、政府の社会保険制度改革と連動している。そこで本稿では、政府がドライバーなどギグワーカー向けに新たに設けた"労災保険"について紹介する。

1――ギグワーカーと社会保険

1――ギグワーカーと社会保険

習近平政権は2014年に「新型都市化」政策を掲げ、農村住民が都市住民となる条件を整備、小規模都市の増加と中規模都市の拡大を促進した1。農村から都市へ移動した労働人口は、その後の新型コロナウイルス禍や経済成長の鈍化によって、より流動的となった。更に、社会のデジタル化が進む中、プラットフォームを通じて短期・単発で働くギグワークや非正規雇用は、一時的な雇用の受け皿として政府によっても推進された。しかし、問題となったのは、ギグワーカーが社会保険に加入できていないことから、就業中のケガや疾病、老後の生活など、都市で働き生活していく上での諸リスクに対処できず、セーフティネットの外に置かれ続けていた点にある。
 
また、中国の社会保険制度は戸籍によって加入できる制度が異なるため、勤務地に応じて戸籍を移動するなど煩雑な手続きが必要であった。このため、都市間を短期間で移動する出稼ぎ労働や非正規雇用には不向きな制度であった。政府は非正規労働者であっても個人で都市の会社員が加入する公的年金、医療保険制度への加入を可能としていたが、保険料負担が重く、収入が不安定な中で継続的な納付は困難であった。加入促進に向けて課題となっていたのは、「戸籍の所在にかかわらず現在の勤務地での加入が可能となること」と、「保険料負担の軽減」である2
 
1 梶谷懐・高口康太(2025)『ピークアウトする中国-「殺到する経済」と「合理的バブル」の限界』、文藝春秋。
2 都市の会社員を対象とした年金制度では、非正規雇用者向けにすでに勤務地での加入が可能となっており、保険料率の軽減もはかられている。また、公的医療保険についても勤務地での加入が可能となっている。

2――もう1つの"労災保険"の出現

2――もう1つの“労災保険”の出現

ギグワークと社会保険を巡る問題について、大きな動きが見られるようになったのは2017年ごろからである。2017年4月、国務院は「現在および今後の一定期間における就業・起業の業務改善に関する意見」3を発表し、プラットフォーム経済の促進とそれを支える非正規労働者の社会保険加入促進に言及した。プラットフォーム経済の成長を支える非正規労働者について、これまでと同様に公的年金、医療保険制度への加入を促進しながら、非正規労働者を対象とした労災保険、失業保険の保障方法について模索するとしたのだ。
 
労災保険、失業保険の保障方法の模索において、特に優先されたのは労災保険である。ECやフードデリバリーなどプラットフォーム経済の拡大に伴って商品の配達が増加し、ドライバーの配達業務中の事故やケガなどが増加、その保障をめぐってトラブルが多発していたからである。国務院の意見を受けて、各地方政府で労災保険への加入緩和策など模索されたが、2021年7月、政府はライドシェア・フードデリバリーのドライバー、宅配の配達員の業務におけるケガ・疾病・障害保障についてパイロット事業を実施するとした。これを受けて、2022年7月から北京市、上海市、江蘇省など7地域において、7つのプラットフォーマーを対象にパイロット事業が開始されている4。既存の労災保険から切り離された、ギグワーカーのためのもう1つの労災保険である(中国語では「新就業形態における就業者の職業傷害保障」、略称は「新職傷」)。
 
この職業傷害保障の特徴は、業務を委託する側のプラットフォーマーに労災保険料に相当する職業傷害保障費の拠出責任を負わせた点にある5。これまでプラットフォーマーはギグワーカーと直接的な雇用契約がないという理由で社会保険料の納付を回避してきた。この新たな職業傷害保障では雇用契約の有無にかかわらず、発注を受けたドライバー・配達員の全員が対象となり、プラットフォーマーは業務の発注をしてから完了するまで間に発生したケガや障害について責任を負うことなる。
 
また、職業傷害保障費は1人あたりではなく、前月の受注件数にリスク係数を掛けて算出される(図表1)。付保期間は原則としてギグワーカーが受注業務を引き受けてから完了後1時間まで(業務時間)である。給付は業務時間内で発生した交通事故・暴力などによるケガ、事故による行方不明、障害、死亡などとなっており、ギグワークの特性に応じた形だ。保障内容については、ケガなどの治療費は給付されるが休業手当は含まれていない。また、障害保障では認定等級別に障害手当、一時障害補助金は給付されるものの、既存の労災保険にあるような介護費用や雇用が中止された際に給付される一時医療補助金、障害就業補助金は給付の対象外となっている。
フードデリバリーなどのギグワークでは配達時間に厳しい制限が設けられ、時間が超過した場合には罰金が課されることもあるなど時間との闘いとなるため、配達中に事故やトラブルが発生しやすい状況にある。このように、短時間の業務で事故の発生リスクが高いため、ギグワークには既存の労災保険とは異なる枠組みが必要と判断されたと考えられる。既存の労災保険での付保となれば、保険料の引き上げや給付における不公平感が生じるおそれがあったためである。また、ギグワーカーは通常、複数のプラットフォームに登録し、業務を受注するケースが多い。そのため、事故が発生した際にはその業務の発注に基づいて、どのプラットフォーマーが責任を負うが決定される。ギグワーカーが複数の受注を同時に行っており、責任の所在を特定することが難しい場合には、同一の配達行程において最初に発注したプラットフォーマーが責任を負うとされている。
 
3 国務院「関于做好当前和今後一段時期就業創業工作的意見」(2017年)。
4 人力資源社会保障部「関于新就業形態就業人員職業傷害保障試点工作的通知」(2021年)、「新就業形態就業人員職業傷害保障業務経弁和征収管理規定(試行)(2022年)、「新就業形態就業人員職業傷害保障弁法(試行)」(2021年)。2022年7月から北京市、上海市、江蘇省、広東省、海南省、重慶市、四川省の7地域でパイロット事業を開始し、美団、餓了么、達達、閃送、貨拉拉、快狗打車、曹操出行の7つのプラットフォームが参加している。
5 人力資源社会保障部 国家発展改革委員会 交通運輸部 応急部 市場監管総局 国家医療保障局 最高人民法院 全国総工会「関于維持新就業形態労働者労働保障権益的指導意見」(社部発〔2021〕56号)。

3――行政と民間保険会社のPPPによる運営も可能に

3――行政と民間保険会社のPPP(Public Private Partnership)による運営も可能に

地方政府(省レベル)による運営が困難な場合、当局は民間の保険会社に対して、傷害の確認、労働能力の鑑定、給付金の検証などの業務を委託できるとしている6。例えば北京市では、中国最大手の国有系生命保険会社である中国人寿(北京支店)が全国に先駆けて業務を受託し、北京市政府(行政部門(Public))と保険会社(民間(Private))が連携(Partnership)する官民パートナーシップ(PPP)方式で制度を運営している7。習近平政権下では、これまでも公的介護保険(一部地域を除く)、公的医療保険の一部(都市・農村住民基本医療保険における大病医療保険)において、同様の官民連携による運営が採用されてきた。
 
中国人寿北京支店は、北京市内の8地区で職業傷害保障に関する業務を展開しており、事故の登録・調査、給付申請の受付け、傷害の確認、労働能力の鑑定、医療費・リハビリ費用・補助器具費用の給付審査、給付の検証、相談窓口の設置など、幅広い業務を代行している8。給付手続きなどの効率化をはかるため、SNS「微信(WeChat)」上にグループを設置し、保険会社・ドライバー・プラットフォーム間のサービスプロセスを最適化している。ドライバーはオンライン上で全プロセスの進捗確認、必要書類の提出、政策に関する照会などが可能である。一方で、中国人寿は重傷や死亡など複雑な案件に対応するため、微信ミニプログラムを通じて顔認識、インタラクティブ動画、空中署名認証などを活用し、調査の全プロセスを可視化・追跡可能にすることで、リスク管理の向上をはかっている。
 
中国ではギグワークやフリーランスといった非正規労働が増加し、2023年時点でその数は2億人を超えている。特にフードデリバリーやライドシェアのドライバーなど、スマートフォンのアプリケーションを通じて業務を請け負う労働者はおよそ8,400万人(全就業者の21%)に達する。人力資源社会保障部によれば、2025年3月時点で職業傷害保障の加入者は1,104万人を超えており9、試行地域は今後17地域まで拡大される予定である。
 
6 新華社によると、2024年8月時点では北京市、上海市、四川省などで官民連携によって運営されている。(出典)新華社「進展如何 効果怎様?-新就業形態就業人員職業傷害保障試点情況調査」2024年8月15日。
7 北京日報「政企協同破難題 北京市新業態職傷試点交出暖心答巻」2025年4月7日。
8 北京市は2024年6月末時点で89.7万人が加入している。(出典)北京市人力資源和社会保障局「北京市人力資源和社会保障局2024年市政府重要民生実事和政府工作報告重点任務二季度進展情況」、2024年7月18日。
9 人力資源和社会保障部「人社部発布:2025年一季度人力資源和社会保障工作主要進展情況及下一歩安排」2025年4月29日。

4――今後の課題と展望

4――今後の課題と展望

現時点での加入対象は、これまでのパイロット地域である7地域と、ライドシェアやフードデリバリーのドライバー、宅配の配達員であり、参加しているのは主に大手の7つのプラットフォーマーに限られている。今後の課題は、対象地域、プラットフォーマー、対象業種の更なる拡大である。ただし、競争の激しい市場環境の中で、中小規模のプラットフォーマーにとっては、職業傷害保障費の負担やその継続が厳しい状況にある点は否めない。更に、ギグワーカー全体のうち、加入者はおよそ8人に1人と少なく、今後の加入者増加に伴い、給付の増加も予想される。給付拡大に対応できるだけの財源を長期的に確保できるか、また、地方政府が財政補助を行えるかといった問題も今後浮上する可能性がある。

また、制度を持続可能なものとするためには、職業傷害の認定基準の見直しが必要となる。ギグワーカーの働き方や労働時間、事故の性質などは既存の労災保険制度とは異なる要素も多い。認定範囲や条件、方法の柔軟化、モニタリング体制の強化、更には民間保険による団体保険の加入など、多層的な保障体制の構築も今後の検討課題となるであろう。

このように、ギグワーカーを取り巻く社会保険制度の改革は、単なる制度内容の改編にとどまらず、業務を委託するプラットフォーマーやリスク保障を提供する民間保険会社など、民間分野を巻き込んだ形で進められている。冒頭で紹介した美団の年金保険料補助の取組みは、プラットフォーマーが一歩踏み込んで行う福利厚生、サポート措置と言えよう。政府(行政)と民間企業が一体となった支援体制は今後さらに進められるであろう。

保険研究部   主任研究員・ヘルスケアリサーチセンター兼任

片山 ゆき(かたやま ゆき)

研究領域:保険

研究・専門分野
中国の社会保障制度・民間保険

経歴

【職歴】
 2005年 ニッセイ基礎研究所(2022年7月より現職)
 (2023年 東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了) 【社外委員等】
 ・日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
 (2019~2020年度・2023年度~)
 ・生命保険経営学会 編集委員・海外ニュース委員
 ・千葉大学客員教授(2024年度~)
 ・千葉大学客員准教授(2023年度) 【加入団体等】
 日本保険学会、社会政策学会、他
 博士(学術)

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