8月19日、北京銀行の支店の前には市民が殺到し、長蛇の列ができたことが報道された
1。折しも7月以降、河南省や安徽省の地方銀行では預金が凍結され、引き出せなくなる事態も発生しており、地方銀行の動きに預金者が敏感になっているというタイミングでもあった。北京銀行でも同じ状況かと思われたが、その原因は全く異なる。それは、北京市当局による公的医療保険制度の健全化にあった。
北京市が管轄する公的医療保険制度は、雇用主である企業と従業員である個人がそれぞれ保険料を拠出している
2。雇用主が拠出した保険料は北京市共通の基本医療保険基金に積み立てられ、入院給付などに使用される。従業員の拠出分は、医療保険専用の個人口座(医療口座)が設置され、積み立てられる。北京市では、この医療口座を北京銀行や北京農村商業銀行が管轄している。医療口座は、本来、通院の自己負担部分の支払いや、診療後の薬代の支払いの際に活用するために設置されたものである。
しかし、北京市においては、これまで医療口座の資金を自由に引き出すことができ、別の目的で使用することも可能であった。行列ができたのは、北京市当局が8月19日に、9月1日以降、医療口座の資金は医療費などの支払いに限定すると発表したためである
3。焦った加入者が北京銀行に押しかけ、医療口座の資金を引き出すといった事態となった
4。
この医療口座は医療保険制度の改革の一環で1990年代半ば以降、全国で導入されている。一度も引き出していないとなると、人によってはそれなりの金額が積み立てられていることになる。銀行側は、9月1日以降、医療保障カードなどを通じて、本来の目的である医療費への支払いなどに限定されることになるが、医療口座の資金は没収されるのではなく引き続き本人のものであること、医療口座の管轄は市の専門機関に変更となるが、口座の資金残高は医療保険専用サイトで引き続き確認できることなどを説明し、事態の収拾をはかった。
北京市当局にしてみれば、医療口座の役割を本来の姿に戻すという‘最後の一押し’が政策の趣旨であろう。2021年4月、国は地方政府に、医療保険制度の改革の一環として医療口座の使用範囲を明確に規制するよう求めている
4。また、北京市当局も国の通知を受けて、2021年8月に別途通知を発出し、医療口座の使用範囲について注意を促している
5。北京市当局としても、今般のような政策を突然出したというわけではない。
北京市が出した2021年8月の通知では、医療口座の資金は、加入者が指定した医療機関または診療薬の販売拠点において、自己負担部分の支払いに使用することができるとしている。また、加入者本人に加えて、その配偶者、父母、子女の医療費、薬代、医療機械、医療消費財の自己負担部分に使用することもできるとしている。その一方、公的医療保険で適用されない費用の支払いに使用してはならないと明確化した。
翻って、今般の2022年8月の北京市当局の通知をみると、重要な内容は大きく分けて2つある。1つ目は上掲の9月1日以降の医療口座資金の使用についてであるが、2つ目は再分配機能の向上である。当局としては、この2つ目の方に重きを置いているのではないであろうか。
それは、2023年1月1日から、通院(急診を含む)の年間給付限度額2万元(約40万円)を撤廃し、2万元を超える医療費についても給付対象とするという新たな措置である。現行の北京市の通院給付は、年間の医療費1,800元(約36,000円)までは全額自己負担で支払い(免責額)
6、1,800元から2万元までについてのみ公的医療保険による給付の対象となっている
7。つまり、2万元を超える通院費は100%自己負担となる。これが2023年からは2万元以上の部分についても給付対象とするとしたのである。なお、自己負担は40%であるが、上限を設けない形で通院給付がされることになる。
通院給付の政策緩和は、医療保険制度全体から見れば部分的ではある。しかし、疾病リスクの低い加入者から、高齢者などリスクの高い加入者へのリスクカバー範囲が拡大することになる。また、保険料は所得に応じて徴収されていることから、給付上限がなくなることで、再分配の効果も向上することになるであろう。北京市当局は、この通院給付の緩和措置によって恩恵を受ける加入者は17万人、負担軽減はおよそ10億元にのぼると試算している
8。国としても医療保険におけるリスク分散、再分配機能の向上を目指しており
9、その先には所得格差の是正、共同富裕の実現がある。今般は、北京銀行での行列によって注目が集まったが、北京市当局の政策は、制度における機能を健全化し、更に、社会保障の役割である所得格差の是正に向けた小さな一歩と捉えることもできよう。