ケーニヒスベルクにゆかりのある著名人は多くいる。
例えば、偉大なる哲学者の
カント(イマヌエル・カント:Immanuel Kant)は、ケーニヒスベルクで生まれ育ち、ケーニヒスベルク大学の教授であった。亡くなったのもケーニヒスベルクにおいてであり、カントの霊廟はケーニヒスベルク大聖堂にある。
「現代数学の父」と呼ばれ、非常に多岐にわたる分野での業績がある
ヒルベルト(ダフィット・ヒルベルト:David Hilbert)も、ケーニヒスベルクで生まれ育った。1900年のパリの国際数学者会議で発表された「ヒルベルトの23の問題」は、その後、数多くの数学者がこの問題に取り組んだことで、20世紀の数学の方向性を形作るものになった。日本の有名な数学者である高木貞治氏はドイツ留学時代ヒルベルトの弟子であった。
数学者としては、以前の研究員の眼で述べた
ゴールドバッハに加えて、
オイラー(レオンハルト・オイラー:Leonhard Euler)も、以下で述べる「ケーニヒスベルクの橋の問題」で、ケーニヒスベルクに関わっている。
作家、作曲家、画家等として多彩な分野で才能を発揮した
ホフマン(エルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマン:Ernst Theodor Wilhelm Hoffmann)
1もケーニヒスベルクで生まれ育った。ホフマンの作品を基にした楽曲としては、オペラの「ホフマン物語」(ジャック・オッフェンバック作曲)やバレエの「くるみ割り人形」(ピョートル・チャイコフスキー作曲)、「コッペリア」(レオ・ドリーブ作曲)等が有名である。
また、「楽劇王」として知られる偉大な作曲家である
ワーグナー(ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー: Wilhelm Richard Wagner)もケーニヒスベルクに住んでいたことがあり、この地で最初の妻である女優のミンナ・プラーナーと結婚している。
日本人でも、関わりのある人はいる。第2次世界大戦中に多くのユダヤ人等に大量のビザを発行して6,000人に及ぶ避難民を救ったことで「東洋のシンドラー」として有名な
杉原千畝氏は、リトアニアの赴任後、ケーニヒスベルクに外交官として赴任していた。
以上のように、カリーニングラード(ケーニヒスベルク)は、悲惨な過去を経験した歴史を有する街であるが、一方で文化の香りを強く感じさせる街である。
1 筆名は、エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann)で、敬愛するヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトにあやかって、「アマデウス」を付与しており、通常E.T.A.ホフマンと呼ばれる。