今年に入って、「優良企業」と見られてきた日本の大企業の経営トップによる不祥事が相次ぎ、日本企業の経営の在り方やコーポレート・ガバナンス(企業統治)が大きく問われている。
一方、『もしドラ』こと「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」が、昨年と今年の2年連続でビジネス書のベストセラーとなった。ビジネス書での2年連続1位は史上初の快挙という。『もしドラ』は、弱小高校野球部の女子マネージャーが「マネジメントの父」と称されるピーター・F・ドラッカーの名著『マネジメント』に偶然出会い、その理論を野球部運営に当てはめることでチームを活性化し、甲子園を目指すという青春小説だ。主人公の「川島みなみ」と同じく部活に励む高校生など、これまでドラッカーの著作に触れたことのない若者層の絶大なる支持を得た。日本の将来を背負って立つべき若者層が、『もしドラ』を契機に組織のマネジメントに少しでも関心を持ったのなら、それは大変心強いことだ。日本の経営者の中にも、ドラッカーの考え方に共感を持つドラッカーファン(ドラッカリアン)は多い。
ドラッカーの教えは、高校野球部から営利企業、NPO、行政まで、あらゆる組織のマネジメントに普遍的に当てはまる極めて重要な原理原則が中心であり、ストンと腑に落ちる説得力のあるものばかりだ。だからこそ、ドラッカーの考え方は幅広い層から支持されるのだろう。
今経営の在り方を問われている日本企業の経営者がドラッカーから学ぶべき原理原則は何だろうか。ドラッカーは、74年に刊行された『マネジメント』の中で「企業をはじめとするあらゆる組織が社会の機関である。組織が存在するのは組織自体のためではない。自らの機能を果たすことによって、社会、コミュニティ、個人のニーズを満たすためである」「社会の問題の解決を事業上の機会に転換することによって自らの利益とすることこそ、企業の機能であり、企業以外の組織の機能である」と指摘し、「自らの組織が社会に与える影響を処理するとともに、社会の問題の解決に貢献する役割」の重要性を説いた。これは今日でいう「組織の社会的責任(SR:Social Responsibility)」の在り方を議論したものであり、SRの議論を70年代前半に先取りしていたことは、ドラッカーの卓越した先見性を示している。
事業活動を通じた社会問題解決による社会変革は、営利企業、非営利組織、行政等、営利・非営利を問わず、あらゆる組織のSRであると言えるのだ。営利企業の存在意義も、単なる財サービスの提供ではなく、それを通じた社会的課題の解決、すなわち「社会的価値(social value)の創出」にこそあるべきであり、経済的リターンありきではなく、社会的ミッションを起点とする発想が求められる(CSRの在り方については、拙稿「
CSR(企業の社会的責任)再考」『ニッセイ基礎研REPORT』2009年12月号および
5月13日付の本コラムを参照されたい)。経営トップが志の高い社会的ミッションを掲げ、それを全社に浸透・共有させ、組織風土として醸成し根付かせるとともに、社外のステークホルダーからも共感を得て、多様なステークホルダーと一致結束する関係を構築できていれば、企業不祥事など起こる余地はないはずだ。
他方、経営トップの不祥事につながりうる萌芽は、最初は社内における小さな兆候から始まるのではないだろうか。例えば、経営トップが(1)個人的な好みにより特定社員をえこひいきする、(2)会社のために苦言を呈する部下を排斥し、イエスマンの取り巻きを役員に据える、(3)自らの在任期間中の功績がかすまないように、自分より器の小さい部下を次期トップに指名する、(4)コスト削減を全社で進め社員に負担を強いながら、自らは「別格だ」と言わんばかりに社内経費を野放図に使用する、などが挙げられる。いずれも経営トップの慢心、自己保身、公私混同から引き起こされる私利私欲の行動であり、法には触れないものの、ドラッカーが説く「社会の機関としての企業」の経営トップが取るべき行動とは相容れないものだ。このような兆候に気付いた社員は、経営トップへの信頼感や仕事へのモチベーションを低下させ、会社へのロイヤリティ(忠誠心)を喪失し、やがてそれが広範な社員に波及し、優秀な人材から退職し始め、会社の崩壊が始まる。
会社の崩壊が始まる前に不祥事の萌芽を摘むべきだ。経営トップには、自らの胸に手を当て少しでも私利私欲を優先していないか、自問自答してほしい。少しでも心当たりがあるなら、今すぐ内向きの私利私欲を捨て去り、社会的ミッション実現のために捨て石になるくらいの不退転の覚悟で経営に当たってほしい。
次の『もしドラ』の主人公は、日本の経営者だ。「川島みなみ」に続き、日本の経営者がより良い社会の実現のために、襟を正してドラッカーの『マネジメント』を真摯に実践する番だ。