フリードリヒ・ハイエクは、80年代後半に議論され始めた欧州における経済統合を予見し、結果として実現した単一通貨ユーロの発行を否定した、貨幣発行の自由化論を打ち上げた
2。政治的な権力の影響を受け易い中央銀行の存在自体が、インフレの温床となっていると指摘し、各銀行が自由に銀行券を発行し、預金者が選択できる銀行券のうち、最も通貨価値の安定している、つまりインフレ率が平均して低い銀行券を貨幣として受容できるようにすることを主張した。現代のビットコインなどの仮想通貨の発行に通じる提案であった。
政府の貨幣発行特権に基づく貨幣鋳造益の乱用こそ、インフレの歴史である。この不幸を克服するためには、貨幣を自由に発行させる権利を銀行に与える必要がある。さまざまな銀行預金が貨幣として競争する中で、わたしたちが商品を購入する際、ある銀行預金の購買力が他の銀行預金に比べて安定していれば、その預金が貨幣として選択される。貨幣となる預金を発行する銀行は、貨幣としての預金の価値を高めるべく銀行の名声を維持しながら、預金発行量を調整する結果、貨幣価値の低下、つまりインフレが避けられることになる。
しかし、現実には、欧州において単一の中央銀行である欧州中央銀行が発行する統一通貨ユーロの導入に至るまでの道のりは、政治的な権威をもつ中央銀行を必要としない貨幣発行自由化論とは真逆の経緯を辿ったことになる。欧州中央銀行では、政策決定会合での採決が満場一致になるまで議論するのを原則とするため、金融市場との対話において、審議委員の間の意見の不一致が金融市場のかく乱要因となる。
金融政策をルールで縛るべきか、中央銀行の裁量に任せるべきかという80年代の議論は、今や学部生向けのマクロ経済学の教科書を飾っている。選挙を通じたポストの再選の確率を高める政治経済学的要因などのため、中央銀行総裁が代表する中央銀行家は、インフレが起こらない下で、非自発的失業のない完全雇用が労働市場で実現する自然失業率よりも低い失業率を目標とする傾向がある。この短期を重んじ長期を軽んず時間的不整合性と呼ばれる問題から、失業率を低め景気を良くするために、インフレを起こす。物価変動に伴う社会厚生上のコストのことをインフレ・バイアスと呼ぶ。社会厚生上望ましいゼロ・インフレの達成をわたしたち民間経済主体が信用するように、中央銀行家が約束(コミットメント)するルールが、インフレ・バイアスを未然に防ぐのに役立つ
3。
しかし、インフレ・ターゲティングの枠組みなど、実際の金融政策がそうであるように、中央銀行の金融政策をルールで縛ることはできても、わたしたちが低インフレの達成のコミットメントを信用することは難しい。なぜなら、インフレ・バイアスが存在するからである。現実の金融政策は、裁量に拠らざるを得ない。問題は、裁量の下で発生するインフレ・バイアスをどれだけ小さくできるかである。
インフレ・バイアスの大きさを決める要因のうち、中央銀行家の資質が関わるのが、物価変動の社会的損失をどれだけ大きく考えているかという中央銀行家の選好である。この物価変動に対する警戒の大きさを、提唱者の名前(Kenneth Rogoff)を冠し、ロゴフの保守主義と呼ぶ
4。つまり、物価変動に対してより保守的な選好を持つ中央銀行家の裁量に任せる方が、社会的に見て望ましい金融政策が期待できることになる。
それでは、ロゴフの保守主義を満たす中央銀行家を如何にして選ぶことが可能であろうか。民主主義的手続きとして、選挙民の直接選挙に任せることが考えられる。しかし、選挙による手続きの下では、ロゴフの保守主義の程度が選挙民のもつインフレ警戒度の分布において、上からと下からの中位にある被選挙人が選ばれることになる。この中位者投票のメカニズムにより、社会的に望ましいロゴフの保守主義を標榜する被選挙人が世の中に存在するにも関わらず、中位にあるより望ましくない中央銀行家が選ばれる。直接選挙による中央銀行総裁の選出は、望ましくない。中央銀行総裁の選出について、「民主主義の赤字」が許容される理由である。
2 F.A.ハイエク『貨幣発行自由化論』(川口慎二訳)、1988年、東洋経済新報社。
3 Barro, R. J, and D. B. Gordon. "Rules, Discretion and Reputation in a Model of
Monetary Policy." Journal of Monetary Economics 12(1) (1983), pp. 101-121.
4 Rogoff, Kenneth. "The Optimal Degree of Commitment to an Intermediate Target." Quarterly Journal of Economics 100 (1985), pp. 1169-90.