国柄(国の徳)について

1990年06月01日

(細見 卓)

人間社会には、人徳というものがあり、それはその人の人品が卑しくないとか、誰もがどことなく好意を持つ生まれながらに備えた何か人を引きつけるものと言われている。そして、そのようなものを持った人はたとえ失敗するとか、時に間違いを犯したとしても何とはなしに許されて、社会への復帰が容易となっているように思われる。

どうもこのことは人間にだけ当てはまるのではなくて、人間の集団である国家についてもそういうものが存在するように考えられる。先般、東欧諸国を回っていた折りに聞いた話であるが、ソ連や東欧諸国のような国々に留学したり、その言語を専門に研究している人達が、必ずしもその留学した先の国や言語を母国語とする国に対して好意を抱いていないのが一般的なようである。このことは、単純にそれらの国が共産主義国で自由が無かったとか、社会が抑圧され民主主義が生かされていなかったことによるものではないように思われる。ここに、国柄というか、国の徳というか、前述の人徳とか人柄に当たるものがあって、個々の国々への好意や嫌悪感を大きく左右しているようである。

東欧のペレストロイカ以降、日本を含め西欧諸国において東欧諸国に対する傾倒が一見認められるようだが、その本心はビジネスの拡大やあるいは出現するであろう新市場への参入意欲といったものであって、今のところこれらの国が好きだからとか、これらの国に対する物心両面の支援といったものではないようにみられる。

このような国としての徳の有無は、ソ連、東欧諸国に限られたことではなくて、我々の足下である日本においても大きな問題として認識されねばなるまい。日本が西欧諸国は言うに及ばず、近隣の東アジア諸国の人達からも、徳のある国としてみられておらず、国としても好意を持たれていないのではないかという反省を強いられる状況ではなかろうか。即ち、日本民族は純血であるといった間違った排外思想や、あるいは他国民には理解されない文化であるという思い込みや優越感が社会に染みこんでいるため、多くの日本への留学生が帰国後反日的になるとか、日本人の海外旅行に対する批難、日本の対外投資に対する拒絶反応といった事例を起こしており、このことはシンガポールのリークアンユー首相の言葉を持つまでもなく、単なる交際下手といったことではなく、日本の国柄や徳の面で何か足らない所があることを示しているのではなかろうか。国として他国に受け入れられるためには、まずこちらが他国を受け入れることが必要であり、単に受け入れられるばかりでなく国としてあるいは国民として好意を持たれるには、その上で国柄、徳の面で魅力のあることが必須であろう。この点においては、日本は未だ未だであり、行くべき道は長しといった感がする。このような私の杞憂が間違っておれば幸いである。

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