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- 「推し」とは何なのか(2)-オタクと2つのシャーデン・フロイデ
コラム
2025年11月25日
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■要旨
本稿の目的は、シャーデン・フロイデ(他者の不幸に対する快感)が、単なる敵意や嫉妬によって生まれるだけでなく、強い愛情や絆といったポジティブな感情の裏側からも生起することを明らかにする点にある。
とりわけオタク文化における「推し」との関係性は、対象への深い感情的関与を前提として構築されるため、シャーデン・フロイデが発現しやすい独自の心理的土壌を有している。
本稿では、オタクが抱えるシャーデン・フロイデを大きく二つの類型として整理する。
第一に、限定的資源(席、グッズ、接触機会)をめぐる競争環境が生む“他者オタクへの敵意型”シャーデン・フロイデ。
第二に、推しへの強い愛着や理想化が裏切られたと感じたときに発生する“反転アンチ的・愛憎転化型”シャーデン・フロイデである。
とくに後者は、愛情の喪失や理想との不一致が攻撃性へと転化する心理過程を含み、推しに対する憎悪がどのように生まれ、いかに自己防衛として機能するのかを理論的・事例的に考察する。
なお、本稿の議論は筆者自身のこれまでのエスノグラフィ的観察や自身の経験を基盤としており、オタク文化を俯瞰することを試みた一つの私論である。
普遍的に書いたつもりではいるが、ここで述べた現象や要因がすべてのファンやすべての推し関係に当てはまるわけではないことに留意したい。
また、特定の推し活のあり方を価値づけたり否定するものではないことも重ねて留意したい。
■目次
1――他人の不幸で今日も飯が美味い
2――“愛憎転化”
3――他のオタクに対するシャーデン・フロイデ
4――推しに対するシャーデン・フロイデ
5――なぜ推しのことを嫌いになるのか
6――ファンは「大切な誰か」ではなく、「大切な多くの一人」
7――私たちが愛しているのは“アイドルとして見せられた一側面
8――SNSや対面イベントが加速させるパラソーシャル関係
9――それでも我々が推し活をする理由
本稿の目的は、シャーデン・フロイデ(他者の不幸に対する快感)が、単なる敵意や嫉妬によって生まれるだけでなく、強い愛情や絆といったポジティブな感情の裏側からも生起することを明らかにする点にある。
とりわけオタク文化における「推し」との関係性は、対象への深い感情的関与を前提として構築されるため、シャーデン・フロイデが発現しやすい独自の心理的土壌を有している。
本稿では、オタクが抱えるシャーデン・フロイデを大きく二つの類型として整理する。
第一に、限定的資源(席、グッズ、接触機会)をめぐる競争環境が生む“他者オタクへの敵意型”シャーデン・フロイデ。
第二に、推しへの強い愛着や理想化が裏切られたと感じたときに発生する“反転アンチ的・愛憎転化型”シャーデン・フロイデである。
とくに後者は、愛情の喪失や理想との不一致が攻撃性へと転化する心理過程を含み、推しに対する憎悪がどのように生まれ、いかに自己防衛として機能するのかを理論的・事例的に考察する。
なお、本稿の議論は筆者自身のこれまでのエスノグラフィ的観察や自身の経験を基盤としており、オタク文化を俯瞰することを試みた一つの私論である。
普遍的に書いたつもりではいるが、ここで述べた現象や要因がすべてのファンやすべての推し関係に当てはまるわけではないことに留意したい。
また、特定の推し活のあり方を価値づけたり否定するものではないことも重ねて留意したい。
■目次
1――他人の不幸で今日も飯が美味い
2――“愛憎転化”
3――他のオタクに対するシャーデン・フロイデ
4――推しに対するシャーデン・フロイデ
5――なぜ推しのことを嫌いになるのか
6――ファンは「大切な誰か」ではなく、「大切な多くの一人」
7――私たちが愛しているのは“アイドルとして見せられた一側面
8――SNSや対面イベントが加速させるパラソーシャル関係
9――それでも我々が推し活をする理由
1――他人の不幸で今日も飯が美味い
シャーデン・フロイデという言葉を聞いたことがあるだろうか。freude(喜び)とschaden(損害・毒)という言葉から成るドイツ語である。日本語では「人の不幸は蜜の味」や「メシウマ(他人の不幸で今日も飯が美味い)」などがこれにあたるだろう。自慢話をしているいけ好かないやつが失敗しているのを見るとうれしいと感じる者も少なくないだろう。ドイツの哲学者イマニュエル・カントによれば我々は「他人の幸福が自身の幸福を少しも損なうことないのに、他人の幸福を見る事に苦痛を伴うこと」があり、それを嫉妬と定義している。基本我々は利己主義であり、他人より自分が劣っていることが苦痛で仕方がないのである。それゆえにシャーデン・フロイデのような誰かが失敗した時に思わず湧き上がる喜びの感情が生まれてしまう。
2――“愛憎転化”
一見すると、この感情は単なる悪意や妬みの表れのように見える。だが、近年の心理学や脳科学の知見によれば、シャーデン・フロイデは「敵意」だけでなく、「愛情」や「絆」といった、むしろポジティブな感情の裏側からも生まれることがあるとされている。脳科学者で『シャーデンフロイデ』1の著者でもある中野信子は、「妬み」という感情の背景には「オキシトシン」が関与している可能性があると指摘する。オキシトシンとは、脳下垂体後葉から分泌されるホルモンの一種で、「幸せホルモン」としても知られている。このホルモンは安心感や信頼感を高め、人間関係を円滑にする働きを持つとされ、その主な役割は、人と人とのつながりを強化し、愛着を形成することにある。他者との間に特別な情緒的絆が生まれるとき、脳内ではオキシトシンがその回路の形成に関わっている。しかし近年の研究では、このホルモンが必ずしも「優しさ」や「幸福」だけをもたらすわけではないことも明らかになっている。オキシトシンは、絆が脅かされたときに「自分の集団や関係を守ろう」とする防衛的な行動を強める作用も持つ。言い換えれば、人と人とのつながりが切れそうになるとき、オキシトシンはそれを阻止しようとする反応を促すのである。「離れないでほしい」「関係を終わらせようとするのを許せない」といった衝動は、その作用の表れといえる。
また、Cikara & Fiske(2013)2によれば、人は「自分が感情的に関与している対象」ほど、その対象が失敗したときにシャーデン・フロイデを感じやすいことが確認されている。これは単なる「敵意」ではなく、むしろ関係性の深さそのものが引き金になっているという点で、愛情や絆と密接に結びついているといえる。それゆえに、対象への強い愛着は、ときに嫉妬や攻撃性を伴う。他者への愛情が深くなるほど、関係が理想どおりにいかなくなったときの不安や怒りも強まる。
心理学的には、こうした状態は「愛憎転化」や「アンビバレンス(両価性)」として知られている。好きな人が自分の理想から外れたとき、「失望」や「怒り」が生まれ、その相手が不幸になると、無意識のうちに“自分の感情を正当化する”ための安堵を感じてしまう。つまり、「自分が裏切られた」と感じる痛みを軽くするために、「ほら、うまくいかないでしょ」と思うことで心理的なバランスを取っているのである。これは一種の自己防衛反応であり、愛情が強いほど、その反応も強くなる傾向がある。この心理の背後には、次のようなフローがある。
オキシトシンの分泌 → 愛情・絆の深化 → 理想と現実の不一致(愛が必ずしも成就しない) → 愛憎転化(愛情が裏切りや失望によって敵意へと転じる) → ネガティブ感情の増幅 → シャーデン・フロイデ(他者の不幸に対する安堵・快感)の発露
つまり、オキシトシンによって形成された深い愛着が、関係の破綻や理想とのズレによって“防衛的な攻撃性”へと転じる。その結果、相手の不幸を見て「ほら、言ったでしょ」と感じる。それは他者を罰したいというよりも、自分の理想を裏切られた痛みを和らげるための心理的自己防衛として機能する。そして、愛情が強いほど、こうした愛情起因型のシャーデン・フロイデも強くなる傾向があると考えられている。
1 中野信子(2018)『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感 』幻冬舎新書
2 Mina Cikara , Susan T Fiske(2013)“Their pain, our pleasure: stereotype content and schadenfreude”,Annals of the New York Academy of Sciences: Volume 1299, Issue 1,52-59.
また、Cikara & Fiske(2013)2によれば、人は「自分が感情的に関与している対象」ほど、その対象が失敗したときにシャーデン・フロイデを感じやすいことが確認されている。これは単なる「敵意」ではなく、むしろ関係性の深さそのものが引き金になっているという点で、愛情や絆と密接に結びついているといえる。それゆえに、対象への強い愛着は、ときに嫉妬や攻撃性を伴う。他者への愛情が深くなるほど、関係が理想どおりにいかなくなったときの不安や怒りも強まる。
心理学的には、こうした状態は「愛憎転化」や「アンビバレンス(両価性)」として知られている。好きな人が自分の理想から外れたとき、「失望」や「怒り」が生まれ、その相手が不幸になると、無意識のうちに“自分の感情を正当化する”ための安堵を感じてしまう。つまり、「自分が裏切られた」と感じる痛みを軽くするために、「ほら、うまくいかないでしょ」と思うことで心理的なバランスを取っているのである。これは一種の自己防衛反応であり、愛情が強いほど、その反応も強くなる傾向がある。この心理の背後には、次のようなフローがある。
オキシトシンの分泌 → 愛情・絆の深化 → 理想と現実の不一致(愛が必ずしも成就しない) → 愛憎転化(愛情が裏切りや失望によって敵意へと転じる) → ネガティブ感情の増幅 → シャーデン・フロイデ(他者の不幸に対する安堵・快感)の発露
つまり、オキシトシンによって形成された深い愛着が、関係の破綻や理想とのズレによって“防衛的な攻撃性”へと転じる。その結果、相手の不幸を見て「ほら、言ったでしょ」と感じる。それは他者を罰したいというよりも、自分の理想を裏切られた痛みを和らげるための心理的自己防衛として機能する。そして、愛情が強いほど、こうした愛情起因型のシャーデン・フロイデも強くなる傾向があると考えられている。
1 中野信子(2018)『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感 』幻冬舎新書
2 Mina Cikara , Susan T Fiske(2013)“Their pain, our pleasure: stereotype content and schadenfreude”,Annals of the New York Academy of Sciences: Volume 1299, Issue 1,52-59.
3――他のオタクに対するシャーデン・フロイデ
ここから、例えばオタクにおいては、オタ活を進めていく中で2つのシャーデン・フロイデが生まれると筆者は考える。まず1つ目は、他のオタクに対する敵意によって生じるシャーデン・フロイデである。他人の経験やコレクションに嫉妬し、敵意を抱いている相手が失敗したとき――たとえば、ライブの席が自分より悪かったり、レアなグッズを手に入れ損ねたりしたときに、「ざまぁ」と感じて心理的優位性を得るケースだ。この現象の背景には、オタク市場の構造的な特性がある。ライブには定員があり、グッズや握手券などの有形物も需要が供給を上回ることが多い。日用品のようにすべての消費者の手に渡るほど十分に供給されることはなく、ファンはその限られたパイを奪い合うことを余儀なくされている。そのため、独占欲求や他者排他、同担拒否、マウンティングが生まれやすく、他人を敵視せざるを得ない市場環境そのものが、シャーデン・フロイデを生み出す要因となっているのである。
4――推しに対するシャーデン・フロイデ
一方で、筆者はオタクの消費性から、オタクとは自身の感情に「正」にも「負」にも大きな影響を与えるほどの依存性を見出した興味対象に対して、時間やお金を過度に投じ、精神的充足を追求する人、と定義している。つまり、推しという存在を内在化し、当事者意識をもって消費している存在だといえる。たとえばアイドルオタクであれば、アイドル自身と自分の理想像(=理想の消費対象)を重ね合わせたり、推しのインタビューからその将来像や理想像を“自分なりに構築”するなど、推しの人生そのものを自分の内側に取り込むような感情的関与を示す。その結果、「推しを成功させるためには応援が必要だ」「自分が買い支えなければならない」といった責任感や使命感が芽生える。こうした当事者的な心理は、アイドルの成功を「自分ごと」として捉える意識に支えられている。
一般的な消費者には見られないこの消費性は、コンテンツに対する能動的な関与度の高さによるものである。コンテンツそのものが生きる上での中心的な意味を持ち、「ワタクシゴト」――つまり、嗜好対象との関係が自己の主要な関心事となり、他人事ではなく能動的に関与する態度へと変化していく。筆者は、この「ワタクシゴト」こそが、オタクのコンテンツ依存性を生み出し、さらにシャーデン・フロイデをも引き起こす心理的要素であると考える。
現実の生活において、自己実現や人間関係の充足が得にくい時代に生きる私たちは、しばしば社会的な枠組みのなかで立ち止まり、行き場のない停滞感や喪失感を抱えている。そうした現実の不全を補うように、コンテンツが“もう一つの居場所”として機能し、生きる意味の一部を担うようになっているのだ。そして同時に、コンテンツは希望としての力も持っている。推しの存在や作品の世界は、日常の閉塞を一瞬だけ忘れさせるだけでなく、「自分ももう少し頑張ってみよう」と思わせる小さな再起のきっかけとなる。それは現実からの逃避であると同時に、現実と再び向き合うための支えでもある。
また、目的を見失い、ただ時間の流れに身を任せていた人にとって、「推すこと」そのものが新たな生の目的となることもある。推しを応援する日々の行為が、生きていることの実感をもたらし、気づけば“推しの存在を軸にした生”へと再構築されていくのだ。
推し(コンテンツ)の存在が生きる意味の一部となっているほど、推しを内在化しやすくなる。そして、推しの存在そのものに強い当事者意識を持っているために、理想通りの「消費」ができないと、内的な葛藤が生じるのである。ここでいう「理想通りの消費」とは、
(1) 欲しいと思ったものを逃さずに手に入れられるか、
(2) 消費対象である“推し”が、自分の理想像どおりであるか、
――この2点を指す。そのどちらかが崩れたとき、オタクは「自分の理想が裏切られた」と感じ、愛憎入り混じる複雑な感情を抱くようになる。
一般的な消費者には見られないこの消費性は、コンテンツに対する能動的な関与度の高さによるものである。コンテンツそのものが生きる上での中心的な意味を持ち、「ワタクシゴト」――つまり、嗜好対象との関係が自己の主要な関心事となり、他人事ではなく能動的に関与する態度へと変化していく。筆者は、この「ワタクシゴト」こそが、オタクのコンテンツ依存性を生み出し、さらにシャーデン・フロイデをも引き起こす心理的要素であると考える。
現実の生活において、自己実現や人間関係の充足が得にくい時代に生きる私たちは、しばしば社会的な枠組みのなかで立ち止まり、行き場のない停滞感や喪失感を抱えている。そうした現実の不全を補うように、コンテンツが“もう一つの居場所”として機能し、生きる意味の一部を担うようになっているのだ。そして同時に、コンテンツは希望としての力も持っている。推しの存在や作品の世界は、日常の閉塞を一瞬だけ忘れさせるだけでなく、「自分ももう少し頑張ってみよう」と思わせる小さな再起のきっかけとなる。それは現実からの逃避であると同時に、現実と再び向き合うための支えでもある。
また、目的を見失い、ただ時間の流れに身を任せていた人にとって、「推すこと」そのものが新たな生の目的となることもある。推しを応援する日々の行為が、生きていることの実感をもたらし、気づけば“推しの存在を軸にした生”へと再構築されていくのだ。
推し(コンテンツ)の存在が生きる意味の一部となっているほど、推しを内在化しやすくなる。そして、推しの存在そのものに強い当事者意識を持っているために、理想通りの「消費」ができないと、内的な葛藤が生じるのである。ここでいう「理想通りの消費」とは、
(1) 欲しいと思ったものを逃さずに手に入れられるか、
(2) 消費対象である“推し”が、自分の理想像どおりであるか、
――この2点を指す。そのどちらかが崩れたとき、オタクは「自分の理想が裏切られた」と感じ、愛憎入り混じる複雑な感情を抱くようになる。
5――なぜ推しのことを嫌いになるのか
2021年5月22日、元AKB48の柏木由紀が自身のYouTubeチャンネルにて、アイドルとファンの関係性について語った。この動画では柏木がファンから来た質問について回答していくという旨の内容であり、その質問の一つに「推しの外見が最近どんどんやんちゃになっていく。本人の理想のアイドル像と、やりたいことが相反してきているように思う」との質問が寄せられた。柏木はこれに対し、成長するうちに外見を変えたくなると答えたうえで、ファンからの「もっとこうしたほうが良いよ」といった意見について自分を否定されたような気持ちになり、落ち込むと、正直な気持ちを明かした。
確かにアイドルにとっては自身の人生であるからこそ自分の活動は「私事」にしかすぎないのは確かだが、ファンからの人気がメディア露出のための条件に近しいこともあり、いわば「推している」という状態はアイドルではなくファンの方に強いイニシアチブがある。オタクにとっては、自身の理想から推しが離れたら(消費したいと思わなくなったら)いつでも他のメンバーやもしくは他のアーティストに乗り換えることができる一方で、アイドルは自身のファンが他のメンバーやアーティストに流れてしまわないようにセルフブランディングする必要がある。アイドルは与えるものから、与えられるものとしての側面が大きくなっているともいえるのかもしれない。
アイドルオタクにとっては、推すということが生活の中心であるため、言い換えれば彼女たち(の人生)は他人事ではなく「ワタクシゴト」となっていく。そのため、自分の思うようにならないこと(理想どおりの活動をしないこと)に対するもどかしさは、やがてアイドルを非難する要因そのものへと繋がってしまうと筆者は考える。
ただし、その非難の背景には敵意ではなくむしろ共闘意識がある場合が多い。オタクは「売れてほしい」「もっと評価されてほしい」「自分の好みでいてほしい」という思いから、推しに対して自身にとって“正しい(と思う・思いたい)方向へ導くための意見”を口にしてしまう。それは一見すると説教や干渉に見えるが、根底にあるのは応援の延長としての焦りや責任感である。彼らにとって推しの「今」は、これまで“信じて応援してきた”という信念と、共に経験し、支え合ってきた時間の延長線上にある。「共に歩んできた」という関係性は、ファンに“この方向性(=自分の理想)こそ正しい”という確信を与え、それが推しの行動を評価し、時に干渉する際の基準となっている。
そのため、その基準――言い換えれば「自分の理想や好み」――から逸脱する行動を目にしたとき、ファンはまるで共に築き上げてきた物語を否定されたような感覚に陥り、思わず介入的な言動を取ってしまうのである。熱心に推してきた古参のファンほど、長く支えてきたという自負とともに、「以前のほうが良かった」という感情を抱きやすい。長年にわたって推しの成長を見守ってきた分、その変化を“支えた者としての責任”や“かつての理想”と結びつけてしまうからだ。
一方で、新参のファンは距離の近さを錯覚しやすく、むしろ軽い気持ちで「前のほうが良かった」「最近変わったよね」と口にしてしまうことがある。それは、かつてテレビやSNS越しに“評論”していた時の延長であり、実際に握手会やお話会などで対面するようになっても、その半ば傍観者的な距離感を引きずったまま関わってしまうためである。
柏木が同動画の中で「その人が変わってしまったら、また違う人を見つければいい」と、ファンは「応援する」という立場であって、自分の好みを押し付けようとする姿勢に対して疑問を投げかけている。柏木の言い分ももっともであるが、「アイドルの存在がワタクシゴト(精神的充足に繋がる消費対象)となっているオタク」と「推されないと日の目を見ることができないアイドル」は言わば相互関係である。外見、内面、ビジョンを評価して推しているのに、本来の見た目や目標が変わると言う事は、ファンにとっては「自分がこれまで信じ、評価してきた対象」との乖離を意味する。それは同時に、自らの推し活(=時間・お金・感情の投資)を否定されることにも等しい。ゆえに、裏切られたという感情が生じ、これまでの推し方や応援を“正当化”するために、ファンはアイドルに価値観を押し付け、それを「自分には言う権利がある」と信じてしまうのかもしれない。
それでも、推しが自分の理想とは異なる方向へ進んだり、自分の意見や想いを否定されてしまうと、前述のように――オキシトシンの分泌 → 愛情・絆の深化 → 理想と現実の不一致(愛が必ずしも成就しない)、という流れを経て、その強い愛情は“裏切られた”という痛みによって愛憎転化を起こす。「離れないでほしい」「関係を終わらせようとするのを許せない」――そうした感情が示すように、他者への愛情が深くなるほど、関係が理想どおりにいかなくなったときの不安や怒りはより強くなる。そして、その感情が抑えきれなくなったとき、憎しみはやがてシャーデン・フロイデへと姿を変えるのだ。
アイドルや声優の熱愛が発覚する事で、自身の集めたグッズを燃やしたり、破壊し、そのままアンチになる者もいる。オタクとアンチは相反するものではあるが、恋愛をしている=理想通りではない という事実が愛を憎しみへと変化させてしまうのである。
オタク界隈でいうところの、元々は特定の作品、人物のファンだった人間が、何らかの理由で対象のことを嫌いになり、アンチ化する所謂「反転アンチ」となるわけだ。それゆえに、例えば推しが熱愛発覚後に仕事が減少、その後破局・離婚したり、イメチェンをした結果グループの選抜メンバーやフロントメンバーから外されるようなことがあれば、「言わんこっちゃない」と、推しが失敗やうまくいっていないことに対して優越感や幸福感を抱き、それをネタに匿名掲示板やSNSで叩いたり、推し本人に誹謗中傷や殺害予告ともとらえかねないメッセージや手紙を送り、自身を正当化しようとする行為も散見される。もう好きでないならばファンをやめて、離れればいいだけのことなのだが、それができずにいつまでも執着し、そのコンテンツ=推し にかかわり続けようとしてしまうからこそ起きてしまう感情の変化なのだと筆者は考える。
しかし、前述したとおり、こうした行為の根底には、単なる憎悪ではなく、かつての愛情の残滓がある。「好きすぎた」からこそ、完全に手放すことができないのだ。推しを否定しながらも、心のどこかで「また自分の理想に戻ってくれるのではないか」と、一抹の希望を捨てきれずにいる。そしてその希望が、執着へと変わり、批判という形でつながりを保とうとする。ある意味で、反転アンチとは“愛の延命”である。自分がアンチをやめてしまえば、本当に推しとの関係が完全に途切れてしまう。その恐れが、怒りや攻撃という形をとって表出しているにすぎないと筆者は考える。つまり、憎しみは「まだ繋がっていたい」という願望の裏返しであり、その歪な関係の中にも、かつての愛の名残が確かに息づいているのだ。
確かにアイドルにとっては自身の人生であるからこそ自分の活動は「私事」にしかすぎないのは確かだが、ファンからの人気がメディア露出のための条件に近しいこともあり、いわば「推している」という状態はアイドルではなくファンの方に強いイニシアチブがある。オタクにとっては、自身の理想から推しが離れたら(消費したいと思わなくなったら)いつでも他のメンバーやもしくは他のアーティストに乗り換えることができる一方で、アイドルは自身のファンが他のメンバーやアーティストに流れてしまわないようにセルフブランディングする必要がある。アイドルは与えるものから、与えられるものとしての側面が大きくなっているともいえるのかもしれない。
アイドルオタクにとっては、推すということが生活の中心であるため、言い換えれば彼女たち(の人生)は他人事ではなく「ワタクシゴト」となっていく。そのため、自分の思うようにならないこと(理想どおりの活動をしないこと)に対するもどかしさは、やがてアイドルを非難する要因そのものへと繋がってしまうと筆者は考える。
ただし、その非難の背景には敵意ではなくむしろ共闘意識がある場合が多い。オタクは「売れてほしい」「もっと評価されてほしい」「自分の好みでいてほしい」という思いから、推しに対して自身にとって“正しい(と思う・思いたい)方向へ導くための意見”を口にしてしまう。それは一見すると説教や干渉に見えるが、根底にあるのは応援の延長としての焦りや責任感である。彼らにとって推しの「今」は、これまで“信じて応援してきた”という信念と、共に経験し、支え合ってきた時間の延長線上にある。「共に歩んできた」という関係性は、ファンに“この方向性(=自分の理想)こそ正しい”という確信を与え、それが推しの行動を評価し、時に干渉する際の基準となっている。
そのため、その基準――言い換えれば「自分の理想や好み」――から逸脱する行動を目にしたとき、ファンはまるで共に築き上げてきた物語を否定されたような感覚に陥り、思わず介入的な言動を取ってしまうのである。熱心に推してきた古参のファンほど、長く支えてきたという自負とともに、「以前のほうが良かった」という感情を抱きやすい。長年にわたって推しの成長を見守ってきた分、その変化を“支えた者としての責任”や“かつての理想”と結びつけてしまうからだ。
一方で、新参のファンは距離の近さを錯覚しやすく、むしろ軽い気持ちで「前のほうが良かった」「最近変わったよね」と口にしてしまうことがある。それは、かつてテレビやSNS越しに“評論”していた時の延長であり、実際に握手会やお話会などで対面するようになっても、その半ば傍観者的な距離感を引きずったまま関わってしまうためである。
柏木が同動画の中で「その人が変わってしまったら、また違う人を見つければいい」と、ファンは「応援する」という立場であって、自分の好みを押し付けようとする姿勢に対して疑問を投げかけている。柏木の言い分ももっともであるが、「アイドルの存在がワタクシゴト(精神的充足に繋がる消費対象)となっているオタク」と「推されないと日の目を見ることができないアイドル」は言わば相互関係である。外見、内面、ビジョンを評価して推しているのに、本来の見た目や目標が変わると言う事は、ファンにとっては「自分がこれまで信じ、評価してきた対象」との乖離を意味する。それは同時に、自らの推し活(=時間・お金・感情の投資)を否定されることにも等しい。ゆえに、裏切られたという感情が生じ、これまでの推し方や応援を“正当化”するために、ファンはアイドルに価値観を押し付け、それを「自分には言う権利がある」と信じてしまうのかもしれない。
それでも、推しが自分の理想とは異なる方向へ進んだり、自分の意見や想いを否定されてしまうと、前述のように――オキシトシンの分泌 → 愛情・絆の深化 → 理想と現実の不一致(愛が必ずしも成就しない)、という流れを経て、その強い愛情は“裏切られた”という痛みによって愛憎転化を起こす。「離れないでほしい」「関係を終わらせようとするのを許せない」――そうした感情が示すように、他者への愛情が深くなるほど、関係が理想どおりにいかなくなったときの不安や怒りはより強くなる。そして、その感情が抑えきれなくなったとき、憎しみはやがてシャーデン・フロイデへと姿を変えるのだ。
アイドルや声優の熱愛が発覚する事で、自身の集めたグッズを燃やしたり、破壊し、そのままアンチになる者もいる。オタクとアンチは相反するものではあるが、恋愛をしている=理想通りではない という事実が愛を憎しみへと変化させてしまうのである。
オタク界隈でいうところの、元々は特定の作品、人物のファンだった人間が、何らかの理由で対象のことを嫌いになり、アンチ化する所謂「反転アンチ」となるわけだ。それゆえに、例えば推しが熱愛発覚後に仕事が減少、その後破局・離婚したり、イメチェンをした結果グループの選抜メンバーやフロントメンバーから外されるようなことがあれば、「言わんこっちゃない」と、推しが失敗やうまくいっていないことに対して優越感や幸福感を抱き、それをネタに匿名掲示板やSNSで叩いたり、推し本人に誹謗中傷や殺害予告ともとらえかねないメッセージや手紙を送り、自身を正当化しようとする行為も散見される。もう好きでないならばファンをやめて、離れればいいだけのことなのだが、それができずにいつまでも執着し、そのコンテンツ=推し にかかわり続けようとしてしまうからこそ起きてしまう感情の変化なのだと筆者は考える。
しかし、前述したとおり、こうした行為の根底には、単なる憎悪ではなく、かつての愛情の残滓がある。「好きすぎた」からこそ、完全に手放すことができないのだ。推しを否定しながらも、心のどこかで「また自分の理想に戻ってくれるのではないか」と、一抹の希望を捨てきれずにいる。そしてその希望が、執着へと変わり、批判という形でつながりを保とうとする。ある意味で、反転アンチとは“愛の延命”である。自分がアンチをやめてしまえば、本当に推しとの関係が完全に途切れてしまう。その恐れが、怒りや攻撃という形をとって表出しているにすぎないと筆者は考える。つまり、憎しみは「まだ繋がっていたい」という願望の裏返しであり、その歪な関係の中にも、かつての愛の名残が確かに息づいているのだ。
6――ファンは「大切な誰か」ではなく、「大切な多くの一人」
推しとは、単なる「好きな存在」ではない。私たちが推しに惹かれるのは、その人が自分の理想を体現してくれる存在だからであり、同時にその理想を自分の手で育てていける(一緒に歩んでいける)という“当事者意識”を持てるからだ3。それゆえに推しとは、私たちの中にある愛・嫉妬・理想・自己正当化のすべてを映し出す鏡であり、希望でもあり、残酷さそのものでもある。
いくら強い当事者意識を持っても、私たちは推し本人にはなれない。いくら深く関わろうとしても、その行動や選択を自分の意志でコントロールすることはできない。自分はその人を心から大切に思い、自分もきっと“必要とされている”と信じている。たしかに推しにとってもファンは大切な存在だが、ファンは「大切な誰か」ではなく、「大切な多くの一人」にすぎず、どれほど生きる意味を推しに見出し、その人生に当事者意識を重ね、時間も感情もすべてを捧げたとしても、推しの生活の中に自分という存在が入り込むことはできない。そして、推しから見れば、それは“そういうもの”なのだ。
だからこそ、関係は一見「相互的」に見えても、その実、どちらも簡単に手放せる脆い均衡の上に成り立っている。ファンは理想から外れた「推し変」をすることで推しを見限ることができ、推しもまた、理想を押し付けるファンを「他の誰かを推せばいい」と突き放すことができるの。推しにとってファンは「大切な誰か」ではなく、「大切な多くの一人」にすぎず、ファンにとっての“唯一無二”は、推しにとっては“構造的に代替可能”なのだ。
それゆえに、自分にとっては推しがすべてだけど、推しは自分を置き去りにして先に進んでしまう。いくら対面で推しに意見(自身の理想)を述べたとしても、その通りになることは少なく、その結果自分の存在が無視されたような感覚や、自分ばかりが推しにとって自分の存在が大切だと思い込んでいたと気づくことに対する虚しさや苛立ちが生まれてしまう。推し側は裏切っているつもりではないのだが、自身が推しにとって特別な存在であると信じていた自己認識が、現実の関係構造によって否定されたときに生じる認知的不協和によって、裏切られたという感覚を生んでしまうのである。
3 併せて、推しとは、自分が「こうありたい」と願う理想を他者に投影し、その成長を通して自己実現の感覚を得るための心理的装置でもあると筆者は考える。
いくら強い当事者意識を持っても、私たちは推し本人にはなれない。いくら深く関わろうとしても、その行動や選択を自分の意志でコントロールすることはできない。自分はその人を心から大切に思い、自分もきっと“必要とされている”と信じている。たしかに推しにとってもファンは大切な存在だが、ファンは「大切な誰か」ではなく、「大切な多くの一人」にすぎず、どれほど生きる意味を推しに見出し、その人生に当事者意識を重ね、時間も感情もすべてを捧げたとしても、推しの生活の中に自分という存在が入り込むことはできない。そして、推しから見れば、それは“そういうもの”なのだ。
だからこそ、関係は一見「相互的」に見えても、その実、どちらも簡単に手放せる脆い均衡の上に成り立っている。ファンは理想から外れた「推し変」をすることで推しを見限ることができ、推しもまた、理想を押し付けるファンを「他の誰かを推せばいい」と突き放すことができるの。推しにとってファンは「大切な誰か」ではなく、「大切な多くの一人」にすぎず、ファンにとっての“唯一無二”は、推しにとっては“構造的に代替可能”なのだ。
それゆえに、自分にとっては推しがすべてだけど、推しは自分を置き去りにして先に進んでしまう。いくら対面で推しに意見(自身の理想)を述べたとしても、その通りになることは少なく、その結果自分の存在が無視されたような感覚や、自分ばかりが推しにとって自分の存在が大切だと思い込んでいたと気づくことに対する虚しさや苛立ちが生まれてしまう。推し側は裏切っているつもりではないのだが、自身が推しにとって特別な存在であると信じていた自己認識が、現実の関係構造によって否定されたときに生じる認知的不協和によって、裏切られたという感覚を生んでしまうのである。
3 併せて、推しとは、自分が「こうありたい」と願う理想を他者に投影し、その成長を通して自己実現の感覚を得るための心理的装置でもあると筆者は考える。
7――私たちが愛しているのは“アイドルとして見せられた一側面
さらに残酷なのは、私たちが愛しているのが“人間”ではなく、“アイドルとして見せられた一側面”にすぎないということだ。アイドルに限定して論じるのならば、アイドルはステージの上では“理想を体現する存在”としての側面を保たなければならないが、スポットライトの当たらない場所では、葛藤や不安を抱えた一個人としての「本当の自分」が確かに存在している。アイドルという一面以外の一人の人間としての営みの部分だ。しかし、ファンはそのアイドル以外の側面ではなく、演出された理想像を“その人のすべて”として受け入れ、その虚構に当事者意識を重ねてしまう。つまり、どれだけ理解をしようとしても私たちが推せるのは、「人間としての推し」ではなく、「理想としての推し」なのだ。
だからこそ推し活とは、本来“愛する行為”であると同時に、その愛がいつでも反転しうる危うい綱渡りでもある。筆者は消費性という側面から、オタクを「自身の感情に「正」にも「負」にも大きな影響を与えるほどの依存性を見出した興味対象に対して、時間やお金を過度に消費し精神的充足を目指す人」と定義しているが、「「負」にも大きな影響与える」と明言しているのは、この人間としての推しの部分が理想との乖離を生み出し、不祥事、恋愛発覚、活動休止や引退、素行の悪さなどを知ってしまったことで、好きだからこそ生まれる反動の感情が生まれてしまうからだ。
そんなに興味がなければ芸能人の結婚の話題なんて自身の人生に何ら影響を及ぼさないが、人生をかけて好きな対象が、自分の知らないところで/自分ではない誰かと、恋愛関係にあるということは、たとえ読者の皆さんが誰も推したことがなくとも、その胸の痛みは容易に想像つくのではないだろうか。生きる希望・光を取り上げられる感覚だ。
だからこそ推し活とは、本来“愛する行為”であると同時に、その愛がいつでも反転しうる危うい綱渡りでもある。筆者は消費性という側面から、オタクを「自身の感情に「正」にも「負」にも大きな影響を与えるほどの依存性を見出した興味対象に対して、時間やお金を過度に消費し精神的充足を目指す人」と定義しているが、「「負」にも大きな影響与える」と明言しているのは、この人間としての推しの部分が理想との乖離を生み出し、不祥事、恋愛発覚、活動休止や引退、素行の悪さなどを知ってしまったことで、好きだからこそ生まれる反動の感情が生まれてしまうからだ。
そんなに興味がなければ芸能人の結婚の話題なんて自身の人生に何ら影響を及ぼさないが、人生をかけて好きな対象が、自分の知らないところで/自分ではない誰かと、恋愛関係にあるということは、たとえ読者の皆さんが誰も推したことがなくとも、その胸の痛みは容易に想像つくのではないだろうか。生きる希望・光を取り上げられる感覚だ。
8――SNSや対面イベントが加速させるパラソーシャル関係
併せてファンが推しに対して抱く「恋愛感情」や「親密さの幻想」は、しばしば面識のない相手(テレビの有名人やインフルエンサーなど)に対して、一方的に親近感や友人関係のような感情を抱く心理的な関係性=パラソーシャル関係(parasocial relationship)として説明される。しかし現代の推し活においては、その境界が急速に曖昧になりつつあり、かつては画面の向こうに存在していた“偶像”が、今では手を伸ばせば届くほどの距離に感じられる。SNSのコメント欄にメッセージを残せば、推し本人から「いいね」や返信が届くこともある。握手会やお話会、写真撮影会といった接触イベントでは、物理的に接触することができる。さらにライブでは、ステージ上のアイドルが特定のファンに視線を送るなど、名前や存在を認知されることも昨今のオタクのステータス1つになっており、「自分は認知されている」「つながっている」という実感を生む。その物理的・心理的な近さが、ファンに “自分は特別である”という錯覚を与え、推しを“身近な存在”としてリアルに感じさせるのだ。こうして一方向的であるはずの関係は、あたかも双方向的であるかのように錯覚され、ファンの感情的関与をいっそう深めていくのだ。
それでも現実的な親密性――たとえば相互の感情共有や日常的交流――を伴うことは基本的に不可能である。さらに、健全なアイドル運営体制のもとでは、ファンとアイドルの過度な接近や私的関係の構築は意図的に制限されている。これは、偶像としての「理想の自己像」を維持するための構造的要請でもあり、同時に、ファンが“推しとの距離を保つ”ことによって幻想を持続させるための装置でもある。したがって、ファンが推しに対して恋愛感情(いわゆる「ガチ恋」)を抱いたとしても、その関係が現実的に成就する可能性は極めて低いのが現実だ。
それでも現実的な親密性――たとえば相互の感情共有や日常的交流――を伴うことは基本的に不可能である。さらに、健全なアイドル運営体制のもとでは、ファンとアイドルの過度な接近や私的関係の構築は意図的に制限されている。これは、偶像としての「理想の自己像」を維持するための構造的要請でもあり、同時に、ファンが“推しとの距離を保つ”ことによって幻想を持続させるための装置でもある。したがって、ファンが推しに対して恋愛感情(いわゆる「ガチ恋」)を抱いたとしても、その関係が現実的に成就する可能性は極めて低いのが現実だ。
9――それでも我々が推し活をする理由
では、なぜ私たちは誰か/何かを推すのか。推しとは、必ずしも異性でも、恋愛対象でも、人間である必要すらない。それはアニメや漫画、物語の中の登場人物のように、 現実には存在しない虚構の存在であることも多い。むしろ、自分の愛が決して届かない相手である場合の方が多いのに、私たちは一途に、見返りを求めずに愛を注ぐことができる。それは「推しが元気でいてくれることが嬉しい」「推しがいるから自分も頑張れる」―― その想いの根底には、理想であろうと、偶像であろうと、 希望となる存在が“そこに在る”ことへの感謝があるからだ。
推しが推しでいてくれる、それだけで世界は少しだけ明るくなる。だからこそ、推しが自分の理想から逸れたり、「今までの推し」でなくなってしまうことは、 ファンにとっては生きる支点を失うに等しい出来事となる。その喪失の痛みが、時にシャーデン・フロイデ―― すなわち“愛の裏返し”を生み出してしまうのだろう。
結局のところ、「推す」という行為は他者のためという名目のもと、 “自分のため”の行為なのだ。推しのために行動しているようでいて、実際には自分が応援することで精神的な充足を得ている。生きる意味を見出し、日々を支える糧を得るために推す。それは利己的でありながら、きわめて人間的な営みだ。だからこそ、裏切られたと感じたときに自分を守ろうとするのも、また自然な反応なのだ。推すという行為は、利己と献身のあいだを往復する、人間の感情そのものの表現であると筆者は考える。
推しが推しでいてくれる、それだけで世界は少しだけ明るくなる。だからこそ、推しが自分の理想から逸れたり、「今までの推し」でなくなってしまうことは、 ファンにとっては生きる支点を失うに等しい出来事となる。その喪失の痛みが、時にシャーデン・フロイデ―― すなわち“愛の裏返し”を生み出してしまうのだろう。
結局のところ、「推す」という行為は他者のためという名目のもと、 “自分のため”の行為なのだ。推しのために行動しているようでいて、実際には自分が応援することで精神的な充足を得ている。生きる意味を見出し、日々を支える糧を得るために推す。それは利己的でありながら、きわめて人間的な営みだ。だからこそ、裏切られたと感じたときに自分を守ろうとするのも、また自然な反応なのだ。推すという行為は、利己と献身のあいだを往復する、人間の感情そのものの表現であると筆者は考える。
(2025年11月25日「研究員の眼」)
03-3512-1776
経歴
- 【経歴】
2019年 大学院博士課程を経て、
ニッセイ基礎研究所入社
・公益社団法人日本マーケティング協会 第17回マーケティング大賞 選考委員
・令和6年度 東京都生活文化スポーツ局都民安全推進部若年支援課広報関連審査委員
【加入団体等】
・経済社会学会
・コンテンツ文化史学会
・余暇ツーリズム学会
・コンテンツ教育学会
・総合観光学会
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【「推し」とは何なのか(2)-オタクと2つのシャーデン・フロイデ】【シンクタンク】ニッセイ基礎研究所は、保険・年金・社会保障、経済・金融・不動産、暮らし・高齢社会、経営・ビジネスなどの各専門領域の研究員を抱え、様々な情報提供を行っています。
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