2020年08月24日

なぜ研修医は韓国政府の医科大学の定員4,000人増員計画に反対しているのか

生活研究部 上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任 金 明中

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韓国政府が医科大学の定員の拡大や公共医科大学の新設を発表

韓国政府が医科大学の定員拡大や公共医科大学の設立を発表してから、大韓研修医1 協議会(以下、研修医協議会)を中心とした医師たちとの対立が続いている。教育部の兪銀惠(ユ・ウンヘ)長官は7月23日に開かれた「第10回社会関係長官会議」兼「第4次サラム(人という意味の韓国語)投資人財要請協議会」で、2006年以降3,058人で凍結されていた医科大学の定員を、2022年から毎年400人ずつ、つまり10年間で合計4,000人増やすことで7,000人近くまで増やす計画を明らかにした。
 
1 研修医は、韓国では「専攻医」と呼ばれているものの、本稿では「研修医」という日本語の表現を利用した。
 

なぜ韓国政府は医科大学の定員を増やそうとするのか?

なぜ韓国政府は医科大学の定員を増やそうとするのか?

韓国政府は医科大学の定員を増やす理由として、最近、胸部外科、産婦人科、重症外傷外科等の生命と直結している分野の専門医を志願する若者が少ないことや、医療供給の地域格差が発生していることを挙げている。そこで、公共医科大学を新設すると共に医科大学の定員を増やし、若者が忌避する診療科の専門医を確保し、医療供給の地域格差を解消しようとしている。
 
OECDの統計によると、韓国の人口1,000人当たり医師数は2018年現在2.39人(漢方医師を含む)で、OECD平均3.49人を下回っている。また、地域別人口1,000人当たり医師数(2019年基準、漢方医師を除く)は、ソウル特別市(以下、ソウル市)が3.1人で最も多く、最も少ない世宗特別自治市(以下、世宗市)の0.9人と3倍以上の格差を見せている。さらに、2020年基準の地域別医科大学と医科大学の入学定員数は、ソウル市が8カ所と826人であることに対して、世宗市や全羅南道は医科大学が一つも存在しておらず、将来的にも地域内での医師の供給が期待できない状況である。
OECD加盟国の人口1,000人当たり医師数(2018年基準)
地域別人口1,000人当たり医師数と医科大学の入学定員
そこで、韓国政府は地域医療に従事する、いわゆる『地域医師』を2022年から10年間で3,000人養成するという計画を立てた。『地域医師』は、特別選考入試より選出され、合格者には、学費などの奨学金が支給される。但し、医師免許を取得した後には、地域の医療機関で10年間勤務することが義務付けられる。『地域医師』が義務を守らず、地域を離れて都会の病院に転職等をした場合には奨学金を返還せねばならず、医師の免許も取り消される。また、韓国政府は2022年から10年間で感染症の専門医、重症外傷専門医、小児外科などの専門医を500人、ワクチンの開発やバイオヘルス分野等に従事する専門医を500人養成する計画である。さらに、感染内科専門医や疫学調査官等公共医療分野で働く医師を養成する目的で、公共医科大学も新設する方針である。
 

なぜ研修医らは医科大学の定員拡大や公共医科大学の新設に反対しているのか?

なぜ研修医らは医科大学の定員拡大や公共医科大学の新設に反対しているのか?

一方、韓国政府が医大生の定員拡大や公共医科大学の設立を発表したことに対して、研修医協議会や大韓医師協会は、反対の立場を表明している。インターンとレジデントの約1万6000人が属している研修医協議会は、8月7日に午前7時から24時間の集団休診に一時的に突入し、反対の姿勢を示した。さらに、21日からは段階的に無期限のストライキに突入すると発表した。つまり、インターンと4年目の研修医は21日の午前7時から、3年目は22日から、1年目と2年目は23日から業務を中断し、23日午前7時にはすべての研修医が無期限診療拒否に入る計画だ。
 
新型コロナウイルス対策では政府に協力的な立場を見せていた彼らが、ここまで強く反発する理由はどこにあるだろうか?彼らの主張を整理すると次の通りである。
(1)人口1,000人当たり医師数の年平均増加率はOECD平均より高い。
研修医協議会は、韓国における人口1,000人当たり医師数はOECD平均より低いものの、人口1,000人当たり医師数の年平均増加率は韓国がOECD平均を上回っており、この傾向が続くと2028年には人口1,000人当たり医師数がOECD平均より高くなるので、医師数を増やすより、その財源を使って、地域の医療施設を増やす政策を優先的に実施すべきであると主張している。研修医協議会は、大学に入学してから専門医になるまでに平均して15年かかることを強調しながら、これから8年後には医師数がOECD平均を上回ることになるのに、なぜ2022年から15年以上もかけて医師を増やす必要があるのかと政府の対策の問題点を提示した。

研修医協議会が提示したデータの出所が明確ではなかったので、OECDのデータを用いて2000年から2018年までの人口1,000人当たり医師数の年平均増加率を見たところ、韓国は3.5%でOECD平均1.5%より確かに高いことが確認された
(2)医師の地域格差はむしろOECD加盟国の中で小さい
韓国政府が強調している医師の地域格差についても反論をしている。彼らは、OECDのデータを用いて、韓国の都市地域の人口1,000人当たり医師数は2016年時点で2.5人で、地方の1.9人と大きな差を見せておらず、OECD平均(16カ国、都市4.3人、地方2.8人)より地域差が小さいと主張した。そして、韓国における患者一人当たりの年間平均外来受診件数は16.6件とOECD加盟国の中で最も高く、医療サービスへの接近性が高いと強調しながら、医科大学の定員拡大は医師数を増やし、医療費の増加につながる恐れがあると指摘した。

このような彼らの主張は「医師誘発需要仮説」をベースにしている。「医師誘発需要仮説」とは、人口一人当たりの医師数が増えた場合には、医師一人当たりの所得が減少するため、医師は患者より医療内容に詳しいことを利用して、医師の裁量的行動による医療サービス需要の増加を誘発し、医療支出を必要以上に増大させる結果、医療費が増加するという仮説である。

しかしながら、医療費の増加要因を分析した近時の研究では、医師数の増加と医療費増加との相関関係は、規模や競争の原理がより働くことにより、それほど大きくないという分析結果も出ている。従って、医科大学の定員拡大が医療費の増加に与える影響に関する主張は、正確なデータを用いた分析を行ってからする必要があると考えられる。
OECD16カ国における都市と地方の人口1,000人当たり医師数(2016年基準)
OECD加盟国の患者一人当たりの年間平均外来受診件数(2017年)
(3)義務期間10年は医療サービスの質を下げる
専攻医協議会は、医師の免許を取得してから10年間地方で勤務することを義務化すると、医療サービスの質が下がる可能性が高いと主張している。むしろ、地方に勤務する医療従事者や胸部外科、産婦人科、重症外傷外科等、若者が忌避する専門医に対する診療報酬を改善すると共に、彼らが雇われ活躍できる政府による公共医療機関の設立を要求した。国立の医療大学を設立することや医科大学の定員を拡大するより、少ない費用で短期間でより大きな効果が得られる、というのが彼らの主張である。
 
韓国は、OECD加盟国と比べて、主要手術等に対する診療報酬が安く、医療サービスに対する消費者のコストパフォーマンスは高い。その代わりに、医療サービスの供給者に戻る利益は少ない。専攻医協議会は、医療従事者に対する人件費を政府が支援し、専門医を増やす必要があると求めている。
 

結びに変えて

結びに変えて

2000年にあった医薬分業を巡る医師会のストライキは、4カ月も続いたものの、市民団体がストライキの撤回を訴える声明を続々と発表したり、各種マスコミの投稿欄には医師会のストライキを非難する投稿が絶えなかった。その結果、医師会はストライキを撤回し、保健福祉部、医師会、薬剤師会で構成される医薬政委員会に参加して、医薬分業の議論に加わることとなった。
 
但し、今回は研修医を含めた医師会の反発が強く、2000年より事態が悪化する可能性も高い。さらなる問題は、いまだ新型コロナウイルスが収束されておらず、感染が続いている状況にあることである。このような状況下で、政府と医師会の両者の対立により、国民の不安を煽ることは望ましくない。お互いの主張よりも、現在の国民の健康を守ることが、何より重要であることを忘れてはならない。そのためにまず両者が「対話」できる環境を構築する必要がある。
 
韓国と同様な問題を抱えている日本は、韓国より先に医師不足に対する対策を実施している。日本政府は1982年の閣議決定で「医師については全体として過剰を招かないように配慮する」方針を明らかにしてから、1997年の閣議決定で医師の定員を7,625人まで抑制することを決めた。

しかしながら医師偏在が深刻化すると、2006年には「新医師確保総合対策」を発表し、医師不足が深刻な都道府県(青森、岩手、秋田、山形、福島、新潟、山梨、長野、岐阜、三重)について各10人の入学定員を増員した。また、2007年には「緊急医師確保対策」を発表し、全都道府県について原則として各5人の入学定員を増やした。さらに、2010年度から2019年度までも、地域の医師確保等の観点から、「地域枠」、「研究医枠」、「歯学部振替枠」という3つの枠組みで増員を行った。その結果、医学部の入学定員は2019年度には9,420人まで増加することになった。
 
また、厚生労働省は2015年12月に「医師需給分科会」(「医療従事者の需給に関する検討会」の下部組織)を設けて、2018年11月までに24回にわたり、分科会を開催しながら医師需給や医師偏在の問題について議論してきた。分科会には、日本医師会の役員や大学の教授、マスコミの記者などがメンバーとして参加している。
 
韓国政府は、韓国より先に医師不足や医師偏在の問題に対する対策を実施した日本の対策を参考としながら今後の対策を検討する必要がある。特に、医療崩壊や国民の不安を最小化するためにどのような対策を行ったのかに注目することが重要であると考えられる。
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生活研究部   上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任

金 明中 (きむ みょんじゅん)

研究・専門分野
高齢者雇用、不安定労働、働き方改革、貧困・格差、日韓社会政策比較、日韓経済比較、人的資源管理、基礎統計

経歴
  • プロフィール
    【職歴】
    独立行政法人労働政策研究・研修機構アシスタント・フェロー、日本経済研究センター研究員を経て、2008年9月ニッセイ基礎研究所へ、2023年7月から現職

    ・2011年~ 日本女子大学非常勤講師
    ・2015年~ 日本女子大学現代女性キャリア研究所特任研究員
    ・2021年~ 横浜市立大学非常勤講師
    ・2021年~ 専修大学非常勤講師
    ・2021年~ 日本大学非常勤講師
    ・2022年~ 亜細亜大学都市創造学部特任准教授
    ・2022年~ 慶應義塾大学非常勤講師
    ・2024年~ 関東学院大学非常勤講師

    ・2019年  労働政策研究会議準備委員会準備委員
           東アジア経済経営学会理事
    ・2021年  第36回韓日経済経営国際学術大会準備委員会準備委員

    【加入団体等】
    ・日本経済学会
    ・日本労務学会
    ・社会政策学会
    ・日本労使関係研究協会
    ・東アジア経済経営学会
    ・現代韓国朝鮮学会
    ・韓国人事管理学会
    ・博士(慶應義塾大学、商学)

(2020年08月24日「基礎研レター」)

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