コラム
2020年08月11日

コロナ不況を乗り切るカギ?韓国で「ベーシックインカム」導入論が盛んに

生活研究部 上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任 金 明中

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新型コロナウイルスの勢いがいまだ弱まる気配を見せない中、韓国ではベーシックインカムの導入に対する議論が進んでいる。ベーシックインカムとは、政府が、財産や所得、そして勤労の有無等と関係なく、無条件ですべての国民に生活に最低限必要な現金を支給する政策である。
 
ベーシックインカムは、フィンランド、カナダ、オランダ等で一部の人や地域を対象に実験的に実施されたことはあるものの、まだ本格的に導入した国はない。
 
2016年には、スイスで、ベーシックインカムの導入案をめぐって国民投票が行われた。導入推進派は、すべての大人に月2500スイスフラン(日本円で約27万円)、未成年者に月625スイスフラン(同約6万8千円)を支給する案を提案した。これに対して、連邦政府を含む反対派は、膨大な費用が掛かることや、働く意欲を失う労働者が増えること、そして海外の低所得者を中心にスイスへの移民が増える恐れがあることを理由に、ベーシックインカムの導入に対して反対を表明した。投票の結果、有権者の約8割が反対し、ベーシックインカムの導入案は否決された。財源を含めた具体的な内容が決まっていないこと、既存の豊かな福祉制度を失うことに対する不安や、海外からの移民増加に対する懸念が高まったこと等が、スイスの国民がベーシックインカムに反対した主な理由である。

ベーシックインカムの導入に最も積極的なのは進歩系の李在明京畿道知事

スイスを含めた海外の事例を見る限りでは、まだ課題が多いように見えるベーシックインカムに、なぜ韓国の政治家や地方自治体等は関心を持つようになったのだろうか。韓国においてベーシックインカムに対する議論が広がり始めたのは、新型コロナウイルスの感染拡大以降、韓国政府や地方自治体がそれぞれ緊急災難支援金を支給してからである。
 
韓国政府は、3月19日から4月22日まで文在寅大統領主催の「非常経済会議」を開催し、3月30日に行われた3回目の同会議で、所得下位70%に当たる約1400万世帯に1世帯当たり最大100万ウォン(約8万9000円)の緊急災難支援金を支給することを決めた。その後、4月末に緊急災難支援金の支給対象はすべての国民に拡大され、5月11日から5月28日までの間に全国の2116万世帯に支給された(支給率は97.5%、支給額は13兆3354億ウォン(約1.19兆円)、一部の世帯は国へ寄付)。
 
また、地方自治体も政府とは別に緊急災難支援金を支給した。例えば、京畿道が道内に住民票をおいている全ての住民に、一人当たり10万ウォンを支給したことが挙げられる。
 
緊急災難支援金が支給されて以降、ベーシックインカムに対する韓国国民の関心も高まっている。大手世論調査機関のリアルメーターが、6月5日に全国の満18歳以上の成人500人を対象にベーシックインカム導入の賛否について聞いたところ、回答者の48.6%が「最低限の生計保障のために賛成する」と答え、「国家財政に負担になり税金が増えるので反対する」(42.8%)を上回った。
 
韓国でベーシックインカムの導入に最も積極的な立場を見せているのは、進歩系の京畿道の李在明(イ・ジェミョン)知事である。彼は、京畿道の城南市長に在任していた2016年に、城南市に居住している満24歳のすべての若者に四半期ごとに25万ウォン(約22,200円)の地域通貨(1年に4回、合計100万ウォン)を、「青年配当」という名前で全国で初めて支給した。当初は満19~24歳の若者を対象に支給する計画であったものの、予算上の問題もあり対象者を満24歳の若者だけに限定した。さらに、2018年6月に京畿道知事に当選した彼は、城南市で実施した「青年配当」を「青年基本手当」という名前に変更し、2019年から京畿道の満24歳のすべての若者に支給した。

本来のベーシックインカムの条件とは距離か

但し、城南市や京畿道で支給された「青年基本手当」を、ベーシックインカムと言うのは難しい。そもそも、ベーシックインカムは、個人単位に支給される「個別性」、すべての人に支給される「普遍性」、働くことを条件としない「無条件性」、一時ではなく定期的に支給される必要がある「定期性」、現金が支給される「現金支給の原則」、生活に十分なお金が支給されるべき「十分性」を条件としている。この点を考慮すると、城南市や京畿道の「青年基本手当」は、対象を満24歳に限定したこと、現金ではなく限定された地域だけで使える地域通貨が支給されたこと、そして生活に十分な金額が支給されていないことから、ベーシックインカムの「普遍性」、「現金支給の原則」、「十分性」を満たしていない。特に、「十分性」が大きく欠如している。1年間100万ウォンは、1ヶ月で約8万9000ウォン(約7,920円)であり、国民基礎生活保障制度(韓国版の生活保護制度)の1人基準生計給付額52万7158ウォン(所得と資産を所得に換算した金額の合計が0である時の給付額、約4万7000円)を大きく下回っている。
世帯人員・給付別「国民基礎生活保障制度」対象者の所得基準(2020年)

将来には韓国国内のすべての人々にベーシックインカムの支給を計画

一方、李在明知事は、今年の6月20日に出演したテレビ番組(MBC、100分討論)で、5月に支給された緊急災難支援金により、消費が増え伝統市場を含めた地域経済が活性化したことを成功例として挙げながら、ベーシックインカムの導入の必要性を主張した。彼は、今後、「青年基本手当」の適用対象を京畿道のすべての住民を対象に拡大した後、将来的には韓国国内のすべての人々に定期的に一定金額の手当を支給したいという意向を明らかにした。具体的には、最初は1年に2回程度、すべての国民に一定金額を支給した後、段階的に支給回数や支給金額を増やし、将来(10~15年後)には、増税分を財源に一人当たり実質月50万ウォン(約4万4500円)程度のベーシックインカムを支給することが望ましいと主張した。この金額は上記で言及した国民基礎生活保障制度の1人基準生計給付額52万7158ウォン(約4万7000円)に匹敵する金額である。2019年の人口約5200万人を基準に計算すると、必要財源は年間312兆ウォン(約27.8兆円)に至る。ちなみに、312兆ウォンは2020年の政府予算の約6割に該当する金額である。

保守派も最低所得保障を検討

保守系の最大野党である「未来統合党」も、ベーシックインカムの導入に積極的な立場を見せている。未来統合党の金鍾仁(キム・ジョンイン)非常対策委員長は、7月14日に開かれたフォーラムで、「4次産業革命により、仕事の多くがなくなる時期に備え、市場経済を保護しながら市場での需要を持続させるために所得を国民に支給することがベーシックインカムの本来の概念である」と主張した。しかしながら、「今すぐ推進することは難しく、すべての国民に同じ金額を支給することも現実的に不可能である……まずは低所得層中心に支給すべきだ」と李在明知事の主張とは距離を置いた。
 
保守系の呉世勲(オ・セフン)前ソウル市長は、年間所得が一定基準を下回る世帯に対して、世帯の所得に合わせて差等を付けて不足分を現金で支給する、「安心所得制」の導入を提案している。安心所得制は、ノーベル賞経済学者ミルトン・フリードマンの「負の所得税」を参考にしたもので、労働などにより当初所得が多いと給付後世帯所得も多くなるように設計されている。例えば、基準額を年6,000万ウォンに設定した場合の世帯所得別給付額や給付後世帯所得は次の通りである。
「安心所得制」の例(4人世帯、基準額6,000万ウォン基準)

ベーシックインカムの導入に反対する声も

一方、ベーシックインカムの導入に反対する声もある。延世大学のヤンゼジン教授は、7月21日に開催されたベーシックインカム関連フォーラムで、「ベーシックインカムでは、貧困の死角地帯を解消することも、所得を保障することも難しい。韓国の福祉国家の発展は、社会保障を強化することで解決すべきである…単純に福祉支出を増やすより、福祉を必要とする人に支給することが重要である」とベーシックインカムの導入に反対の意見を表明した。
 
韓国政府は、より早く景気を活性化させ、企業の労働需要を増やしたいところだが、新型コロナウイルスの感染拡大は収束の兆しがなおみえず、世界経済の回復への道のりは不透明な状況である。内需よりも輸出に強く依存している韓国経済にとっては、大きな痛手であることは確かだ。今後、経済や雇用状況がよくならない限り、ベーシックインカムや、安心所得制のような所得支援策の導入に対する議論は、後を絶たないと予想される。ポピュリズムに偏らず、現在の制度とバランスを取りながら、持続可能な制度の導入に対する議論が行われることを強く望むところである1
 
1 本稿は、金 明中(2020)「コロナ不況を乗り切るカギ? 韓国で「ベーシックインカム」導入論が盛んに」ニューズウィーク日本版 2020 年 8 月6 日 に掲載されたものを加筆・修正したものである。
https://www.newsweekjapan.jp/kim_m/2020/08/post-20.php
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生活研究部   上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任

金 明中 (きむ みょんじゅん)

研究・専門分野
高齢者雇用、不安定労働、働き方改革、貧困・格差、日韓社会政策比較、日韓経済比較、人的資源管理、基礎統計

経歴
  • プロフィール
    【職歴】
    独立行政法人労働政策研究・研修機構アシスタント・フェロー、日本経済研究センター研究員を経て、2008年9月ニッセイ基礎研究所へ、2023年7月から現職

    ・2011年~ 日本女子大学非常勤講師
    ・2015年~ 日本女子大学現代女性キャリア研究所特任研究員
    ・2021年~ 横浜市立大学非常勤講師
    ・2021年~ 専修大学非常勤講師
    ・2021年~ 日本大学非常勤講師
    ・2022年~ 亜細亜大学都市創造学部特任准教授
    ・2022年~ 慶應義塾大学非常勤講師
    ・2024年~ 関東学院大学非常勤講師

    ・2019年  労働政策研究会議準備委員会準備委員
           東アジア経済経営学会理事
    ・2021年  第36回韓日経済経営国際学術大会準備委員会準備委員

    【加入団体等】
    ・日本経済学会
    ・日本労務学会
    ・社会政策学会
    ・日本労使関係研究協会
    ・東アジア経済経営学会
    ・現代韓国朝鮮学会
    ・韓国人事管理学会
    ・博士(慶應義塾大学、商学)

(2020年08月11日「研究員の眼」)

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