2020年04月01日

20年を迎えた介護保険の足取りを振り返る(上)-制度創設の過程、制度改正の経緯から見える変化と論点

保険研究部 上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任 三原 岳

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1――はじめに~20年を迎えた介護保険の足取りを振り返る~

加齢による要介護リスクをカバーするための社会保険制度として、介護保険制度が発足して4月で20年を迎えた。制度創設に際しては、高齢者がサービスを選択する契約制度を採用するなど、従来の福祉制度を抜本的に改める内容を含んでおり、20年の歳月を経て、国民の間で一定程度、定着したと言えるだろう。

一方、現場の人手不足や認知症ケア、医療・介護連携など新たなニーズへの対応を迫られている中で、高齢化の進展で制度の持続可能性が危ぶまれており、政府は3年に一度の制度改正を通じて、介護予防の強化などに努めている。

本レポートは上下2回シリーズで、20年を迎えた介護保険制度の足取りを振り返りつつ、論点を探る。(上)では制度創設の過程を振り返ることで、与党を中心に様々な利害を調整した点を考察し、こうした利害調整を経た分、思い切った制度改正が難しくなっており、近年の制度改正ではリハビリテーションなど介護予防に力点が置かれている点を指摘する。中でも、2006年度制度改正で導入された「地域支援事業」に注目し、同事業が近年の制度改正で多用されている背景と論点を探る。

(下)では、高齢者の自己選択を意味していた「自立」の変容や国―地方の関係など各論に関する20年の変化を取り上げる。
 

2――介護保険制度創設の過程

2――介護保険制度創設の過程

1|制度創設の背景
高齢者の自己決定・自己選択、民間活力の活用、ボランティアの参加、介護の社会化、国民全体の社会連帯、地方分権の試金石……。介護保険制度創設時の書籍や資料を見ると、こういった言葉が多用されており、どこか多幸感(ユーフォリア)が漂っていたような印象を受ける。

しかし、制度スタートに至る道のりは険しかった1。制度創設プロセスの主な経緯は表1の通りであり、消費増税論議や連立政権の組み換えなど様々な外部要因の影響を受けた。
表1:介護保険創設に至る主な経緯
そもそも厚生省(現厚生労働省)の内部では1990年代前半から高齢者福祉のための社会保険制度を創設する研究が始まっていたようだ2が、消費増税の方向性が見え始めた1994年以降、介護保険制度の創設に向けた議論が加速した3。具体的には、厚相の諮問機関として発足した「高齢社会福祉ビジョン懇談会が1994年3月に取りまとめた「21世紀福祉ビジョン」で、「新介護システム」の導入を要請した。さらに、厚生省は同年7月に「高齢者介護・自立支援システム研究会」を設置し、同研究会が同年12月に取りまとめた「新たな高齢者介護システムの構築を目指して」と題する報告書(以下、研究会報告書)は表2の通り、(1)予防とリハビリテーションの重視、(2)高齢者自身による選択、(3)在宅ケアの推進、(4)利用者本位のサービス提供、(5)社会連帯による支え合い、(6)介護基盤の整備、(7)重層的で効率的なシステム――といった考え方を示した。
表2:高齢者介護・自立支援システム研究会報告書が掲げた考え方 これらの全てを詳述する紙幅はないが、いずれも介護保険に通じるアイデアが盛り込まれている点で、重要な報告書である。例えば(1)の予防とリハビリテーションでは、「寝たきり等の防止に最大の力を注ぎ、若い頃から日常生活における健康管理や健康づくりを進めるとともに、脳血管障害や骨粗しょう症、更には老人性痴呆(筆者注:現在の名称は「認知症」)などの原因疾患の予防や治療に関する研究を推進していく必要がある」「高齢者本人の意思によって地域社会の様々な活動に積極的に参加できるように、日常生活の中にリハビリテーションの要素を取り入れ、地域全体で高齢者を支える取組みを推進していくことが求められる」と定めている。

さらに、(2)の高齢者の選択権に関しては、「社会環境の変化を踏まえ、介護が必要となった場合には、高齢者が自らの意思に基づいて、利用するサービスや生活する環境を選択し、決定することを基本に据えたシステムを構築すべき」と強調。(3)の在宅ケアの推進については、「現在大きく立ち遅れている在宅サービスを大幅に拡充し、在宅の高齢者が必要な時に必要なサービスを適切に利用できる体制作りを早急に進めていく必要がある」と定めた。

こうした内容は介護保険制度が定着した今、当たり前に映るかもしれないが、当時の時代背景を踏まえると、かなり踏み込んだ内容だったことを理解できる。当時、盛んに指摘されていたのが「社会的入院」「寝たきり老人」の存在だった。1973年の高齢者医療費の無料化などで、高齢者を多く受け入れる「老人病院」が増設され、医学的なニーズが少ないのに家庭の事情などで入院する「社会的入院」が顕在化。さらに、大勢の高齢者を収容するベッドで寝たきりにさせるなど、高齢者の人権や尊厳を無視する実態も問題視された。

そこで、研究会報告書では(1)で「寝たきり老人」の解消、さらに(3)で高齢者ケアの受け皿として在宅ケア重視の方針を掲げた。実際、研究会報告書では、「社会的入院」が介護の必要な高齢者をカバーしてきた実態があるとして、下記のような問題意識が披歴されていた。
 
  • 介護が必要とされる時に、近くに頼れる介護施設や在宅サービスが存在しない、あっても手続が面倒で時間がかかる、介護の方法など身近の問題を相談できる相手がいない、介護に関する総合的な相談窓口がない。
     
  • 福祉サービスの整備が相対的に立ち遅れてきたため、病院などの医療施設が(略)実質的に大きな役割を果たしてきた。
 
しかも、こうした「社会的入院」は高齢者を多く受け入れている国民健康保険財政を圧迫していた。このため、介護保険制度で受け皿としての在宅ケアを整備すれば、国民健康保険の財政負担を軽減できるという狙いも隠されていた。実際、少し時代は下るが、1996年5月頃の資料として、当時の厚生省は与党に対して「既存の制度の再編成(純増ではない)」「適正な受給を促す仕組みの内包」と説明していたという4

さらに強調されたのが(2)で挙げた高齢者の自己決定、自己選択である。当時の高齢者福祉制度は税金を財源とする「措置制度」であり、市町村が一方的に支援内容を決定していたため、高齢者に選択権はなかった。この状態を指して、研究会報告書は「ある一定年齢を過ぎると、制度的には行政処分(筆者注:措置を指す)の対象とされ、その反射的利益(行政処分の結果として受ける利益)を受けるに過ぎなくなるというのは、成熟社会にふさわしい姿とは言えない」と指摘し、高齢者の自己決定権を担保する必要性に言及した。

これらの点だけでなく、研究会報告書では、国民同士の「社会連帯」を基盤とした社会保険方式による財源確保、市町村による制度運営の可能性、ケアマネジメントを通じた一体的なサービス提供、専門職の育成、民間活力や市場競争を取り入れた多様な提供主体によるサービス提供、ボランティアの活用などにも言及しており、介護保険制度に通じるアイデアが盛り込まれていた。
 
1 介護保険制度の創設プロセスや制度改正の経緯、制度の詳しい解説については、官僚OBや研究者、有識者、ジャーナリストが様々な書籍や文献を残している。本レポートの執筆に際しては、有岡二郎(1996)「介護保険法案の国会提出をめぐる政治力学」『社会保険旬報』No.1913、池田省三(2011)『介護保険論』中央法規出版、菅沼隆ほか編著(2018)『戦後社会保障の証言』有斐閣、大熊由紀子(2010)『物語 介護保険(上)(下)』岩波書店、大森彌編著(2002)『高齢者介護と自立支援』ミネルヴァ書房、岡本祐三(2009)『介護保険の歩み』ミネルヴァ書房、介護保険制度史研究会編(2019)『新装版 介護保険制度史』東洋経済新報社、京極高宣(1997)『介護保険の戦略』中央法規出版、白澤政和(2011)『「介護保険制度」のあるべき姿』筒井書房、同(1998)『介護保険とケアマネジメント』中央法規出版、堤修三(2010)『介護保険の意味論』中央法規出版、中村秀一(2019)『平成の社会保障』社会保険出版社、増田雅暢(2016)『介護保険の検証』法律文化社、同(2004)『介護保険見直しへの提言』法研、同(2003)『介護保険見直しの争点』法律文化社、宮武剛(1997)『「介護保険」のすべて』保健同人社、和田勝編著(2007)『介護保険制度の政策過程』東洋経済新報社、『文化連情報』No.497~499などを参照。資料については、厚生労働省ウエブサイトに加えて、国立社会保障・人口問題研究所ウエブサイトの「日本社会保障資料」を参照したが、煩雑さを避けるため、公知の事実では引用を省略する。
2 当時の老人保健福祉部長が主宰する部内勉強会として、1992年に発足した「高齢者トータルプラン研究会」が発足し、高齢者介護を社会的リスクとして捉え直すことで、社会保険の導入を図る考え方が論じられていたという。
3 増田(2003)前掲書pp38-39によると、税制改正改革論議よりも介護保険導入の動きが先行した場合、「消費増税は不必要」という議論が出るなど、税制改革の議論が影響を受ける状況だったため、消費税を5%に引き上げる方向性が固まるまで表向き、議論しにくい環境だったという、ただ、1994年後半以降、消費増税の議論が決着し、社会保険方式として介護保障を確保する考え方が有力な選択肢となったとしている。
4 宮武前掲書pp180-182。
2|審議会での調整難航、与党が主導
その後、議論は厚相の諮問機関、老人保健福祉審議会に移ったが、調整は難航した。市町村が保険者(保険制度の運営者)になることを拒否したほか、財界も現役世代の保険料負担に難色を示したためだ。中でも、市町村は国民健康保険の財政赤字に苦しんでいたため、「第2の国保」になるとの懸念を強く持っていた5

結局、1996年4月の老人保健福祉審議会最終報告では、介護保険制度の創設を訴えたものの、▽保険者の主体を国とするか、市町村とするか、▽保険料の納付開始年齢を40歳以上とするか、20歳以上とするか、▽若年者の保険料負担に関して、事業主負担を求めるか否か、▽家族介護に対して現金を支給するか否か――などの点について「両論併記」「多論並列」となり、議論の舞台は与党に移った。

当時の与党は自民党、社会党、新党さきがけという構成であり、3党が厚生省とともに制度設計の詳細を決めた。例えば、自民党医療問題基本調査会長だった丹羽雄哉元厚相(肩書は当時、以下全て同じ)が1996年3月、介護保険制度に関する「試案」を公表し、この中で市町村主体の独立保険方式の導入や納付開始年齢を40歳以上とする案を示したことが事態打開に貢献した。その後も、政府・与党合意の席から梶山静六官房長官が退席したことで、急きょ与党合意に切り替わったなど紆余曲折もあったが、与党ワーキングチームによる地方公聴会、自治体の意見を踏まえた与党の申し入れなどを経て、法案の内容が固まった。

中でも調整が難航したのが市町村との関係だった。市町村が保険者になることを拒否していたため、(1)保険料の徴収を基礎年金から天引きとすることで、確実な保険料徴収システムを導入する、(2)40~64歳の第2号被保険者の保険料については、医療保険者が医療保険料に上乗せして代行徴収する、(3)給付増や保険料の減収などに備える「財政安定化基金」を都道府県単位に設置することで、税金による保険料軽減や穴埋めは認めない――といった制度を採用することで、市町村の理解を得た。

さらに、論点の一つとなった被保険者の対象年齢に関しても、与党の意見が反映された結果、40歳以上で線引きされた。厚生労働省は40歳以上とした理由について、(1)被保険者本人自身が老化に起因する疾病になり、介護が必要となる可能性が高くなる、(2)被保険者の親が高齢となり、介護が必要となる状態になる可能性が高まる――の2点を挙げているが、実際には与党との調整プロセスで決まった経緯がある。

当初、厚生省は20歳などの案を想定していたが、事業主負担を求められる財界が反対していたほか、衆議院議員の任期満了(1997年7月)を控えて与党も神経質となっていた。さらに、20歳以上とした場合、「保険料拠出の見返りとしての反対給付をどう考えるか」という点が課題となり、自民党から物言いが付き、「40歳以上」で妥結した。当時の厚生省幹部が自民党社労族の有力議員だった伊吹文明氏(後に衆院議長、財務相など)に対し、納付開始年齢を「20歳以上」とする案を説明した際、以下のようなやり取りがあったという6
 
当時、20歳以上を被保険者とする介護保険制度案について説明に伺ったことがありました。(筆者注:伊吹氏から)「保険は負担と給付の関係が明確だと君は言っただろう。直接的な受益と結びつかないのは税だ。保険方式で被保険者は20歳からとしても、ほとんど受益のない20歳の若者の保険料負担は本質的に税と同じである(略)」というご指摘でした。(略)時間的にも切迫したころでしたから、何とか制度案を固めなければ行けません。40歳から、というアイデアは以前からありましたが、ハッと思いついて丹羽(筆者注:雄哉)代議士に伊吹さんからあったご異論の報告方々相談に伺いました。(略)「先生、40歳から被保険者というアイデアはどうですか」と。「うん、いいだろう」と(筆者注:丹羽氏に)納得いただき、事務局に戻って山崎(筆者注:史郎)君に「40歳でいくぞ」と。山崎君は「えっ?えっ?」と驚いて、そのことを後々突然40歳になったと言っておりました。
 
この出来事が何年頃なのかハッキリしないが、「40歳以上」という案を示した1996年3月の丹羽試案が出る前であろう。こうした経緯を踏まえると、制度の立案に際しては与党が主導した面が大きいと言える。

このほか、国会審議でも法案が修正された。具体的には、結党間もない民主党7の修正意見を反映する形で、「市町村が介護保険事業計画を策定する際、被保険者である住民の意見を反映するよう市町村に求める」という趣旨の条文が衆議院の審議で追加された。さらに、参議院の審議でも国が講ずべき措置として、サービス提供体制の確保を明記する修正がなされた。当時、保険料だけを取ってサービスが提供されない「保険あってサービスなし」の状態が懸念されており、サービス提供体制の確保が明記された。こうしたプロセスに際しては、介護労働に従事している女性の負担を軽減する「介護の社会化」を主張する市民団体や女性団体の意見も反映された。

こうして見ると、介護保険制度の創設プロセスに際しては、当時の連立与党を構成した自民、社会、さきがけの3党と厚生省が連携しつつ、利害関係者の意見を聞きつつ、合意形成を丁寧に積み重ねていたと考えられる。

その後、連立政権の枠組みが「自民・自由→自民・自由・公明→自民・公明・保守」と目まぐるしく入れ替わる中で、自民党の亀井静香政調会長が「子どもが親の面倒を見るという美風を損なわないような配慮が必要だ」と述べるなど、制度の見直しや延期を促す動きが続出した。さらに経済情勢が悪化したことも重なり、高齢者の介護保険料徴収を減免する特別対策も実施された8が、制度自体は2000年4月にスタートした。

では、こうして難産の末に誕生した介護保険制度の特色として、どんなことが挙げられるのだろうか。ここでは、上記の制度創設の説明で触れた部分を中心に、(1)契約制度の採用、(2)民間活力の活用、(3)地方分権の重視、④費用抑制のメカニズムの採用――の4点を説明する。
 
5 国民健康保険は2018年度に都道府県化された。最近の動向や歴史については、2018年4月掲載の拙稿「国保の都道府県化で何が変わるのか」(全3回)を参照。リンク先は第1回。
6 菅沼ほか前掲書p351。和田勝氏に対するオーラルヒストリー。
7 自民党との連立政権を構成していた間、介護保険制度の導入に前向きだった社会党、新党さきがけの議員が数多く参加していたことも影響した。
8 特別対策を基に、(1)高齢者の介護保険料を2000年4~9月の半年間は徴収しない、(2)2000年10月以降も1年間は高齢者の保険料を半減する――という減免措置が実施された。
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保険研究部   上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任

三原 岳 (みはら たかし)

研究・専門分野
医療・介護・福祉、政策過程論

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