2020年02月21日

図表でみる世界経済(過去半世紀の経済発展編)~米中新冷戦に直面した今だからこそ、米ソ冷戦とその後30年の経済発展を振り返り、米中新冷戦に備えよう!

三尾 幸吉郎

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1――世界で最も豊かな国はどこ?

現在世界で最も経済的に豊かな国はどこなのだろうか。経済的な豊かさを表す代表的な指標といえば一人当たりGDPである。経済的な規模を表す国内総生産(GDP)を、その国地域に属する人口で割り算することで求められる。モノやサービスを生み出す「生産」という概念と所得や幸福度などを計る「豊かさ」という概念の間には次元の違いがある。しかし、マクロ経済学上は「三面等価」という原則があり、「生産面」から見た経済的規模は「支出面」や「所得分配面」から見た経済的規模とほぼ一致するように計算されている。したがって、一人当たりGDPは、その国地域の人々の平均的な所得水準がどの程度かを示す指標ともなり、GDP統計に含まれない幸福度などの「豊かさ」は反映できないとはいえ、経済的な「豊かさ」を計るには簡単で便利な指標といえるだろう。

世界各国地域の一人当たりGDPのトップ30を見ると(図表-1)、米国は約6.3万ドルで世界第9位、西側に属した日本は約3.9万ドルで第26位、同じくドイツは第18位、フランスは第21位、英国は第22位、イタリアは第27位、カナダも第20位と、米ソ冷戦で資本主義陣営(西側)に属した主要先進国(G7)はすべてランクインしている。一方、米ソ冷戦で共産主義陣営(東側)の盟主だったロシアは約1.1万ドルで第65位、東側に属していたハンガリーは約1.6万ドルで第54位、ポーランドは約1.5万ドルで第59位とランク外に甘んじている。また、世界第2位の経済大国である中国は約9,600ドルで第72位に位置しており、人口が13億人を超える巨大なインドも約2,000ドルで第144位に留まっている。

なお、国土が小さく人口も少ない国地域が高位にあるのも目立つ。世界第1位のルクセンブルグはドイツとフランスに挟まれた人口約60万人の小国だが、欧州大陸における金融や情報通信の拠点(ハブ)として発展してきた。第3位のマカオ(中国の特別行政区)は珠江デルタを挟んで香港の反対側に位置する人口約70万人の小国だが、カジノを中核とする観光業で発展してきた。第7位のカタールはペルシャ湾に位置する人口約2百万人の小国だが、原油など天然資源に恵まれただけでなく、首都ドーハに本社を置くアルジャジーラを核に情報通信で中東におけるハブ機能を果たしている。第8位のシンガポールも人口600万人弱の小国だが、アジアにおける貿易や金融のハブとして発展してきた。

それでは、どのような経緯でこのようなランキングとなったのだろうか。米ソ冷戦の渦中にあった1970年から現在に至るまで半世紀に及ぶ歴史を、1970年からソ連崩壊までの約20年とその後の約30年に分けた上で振り返ってみることとしたい。
(図表-1)世界の一人当たりGDP トップ30(2018年)

2――1970年からソ連崩壊までの経済発展

2――1970年からソ連崩壊までの経済発展

今から半世紀前の1970年、第二次世界大戦終結から四半世紀を経た世界は米ソ冷戦の渦中にあった。第二次世界大戦後、マーシャル・プラン1を主導した米国は欧州の戦後復興を強力に後押しするとともに、自国通貨と金との交換性を維持してブレトン・ウッズ体制2を支える役割を果たし、西側陣営の盟主となっていた。一方、マーシャル・プランを拒否したソビエト連邦(ソ連)は、東欧諸国などを衛星国とする経済相互援助会議3(Council for Mutual Economic Assistance、COMECON)で対抗し、東側陣営の盟主となっていた。そして、安全保障面では、西側陣営の北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization、NATO)に対して東側陣営はワルシャワ条約機構4(Warsaw Pact Organization 、WPO)で対峙、自由・民主主義かマルクス・レーニン主義かのイデオロギー論争を繰り広げ、両陣営の間の経済交流はほぼ遮断された状態だった。

まずは当時(1970年)の一人当たりGDPの水準を確認しておこう。西側陣営の主要国を見ると、トップは米国の5,121ドルで、次いでフランス、ドイツ、英国、日本の順番となっており、いずれも米国の半分前後の水準に位置していた(図表-2)。一方、東側陣営の主要国を見ると、トップはソ連の1,788ドルで、次いでポーランド、ハンガリーの順番となっており、いずれもソ連の半分程度の水準だった。また、東西両陣営の盟主であった米ソを比較すると、米国はソ連の3倍弱の水準となっていた。なお、中ソ国境紛争(1969年)でソ連との関係が悪化し米国への接近(1972年には米中共同声明)を図っていた中国は112ドルと極めて貧しい国だった。

その後、ソ連では1985年にゴルバチョフが共産党の書記長に就任し、ペレストロイカ(再構築)が始まった。当初は、政治面で共産党による一党支配や東側衛星国に対するソ連の指導を維持した上で、指令型計画経済(Command Economy)から市場経済(Market Economy)へ転換しようとする経済面の改革に主眼があったが、経済面の改革が中途半端な段階だった中で、民主的選挙や大統領制の導入など政治面の改革が進行し、1991年にはソ連が崩壊する結末となった。1970年からソ連崩壊の前年(1990年)までの一人当たりGDPの推移を見ると、東側陣営の盟主だったソ連の伸びは年平均2.1%で、西側陣営に属した主要国の伸びを大きく下回った(図表-4)。1990年時点の一人当たりGDPの水準を見ても、ソ連は西側陣営の盟主だった米国の10分の1程度まで落ち込んでいた(図表-3)。また、東側陣営に属していたハンガリーでは、早くも1968年に経営の自主判断が取り入れられ、農業改革や工業化がいち早く進展したことから、一人当たりGDPの伸びは年平均9.2%と、東側陣営の中では極めて高かった(図表-4)。他方、同じくポーランドでは1970年代前半には西側陣営からの対外債務や技術導入で高成長を遂げた時期もあったが、石油危機で対外債務の返済計画に狂いが生じると、ストライキや暴動が頻発するなど政治経済が混乱、一人当たりGDPの伸びは年平均3.5%に留まった(図表-4)。

一方、1970~1990年の西側陣営では、米国が1971年に自国通貨と金との兌換を停止(ニクソン・ショック)し、固定為替相場制から変動為替相場制へと段階的に移行していったため、ブレトン・ウッズ体制はその役割を終えることとなった。その後、西側陣営では、石油危機など米国だけでは対応できない問題を話し合うべく、1975年には第一回目の主要先進国首脳会議(当時はG5、現在のG7)を開催し、その後は“集団指導体制”のようになり、1985年には過度な米ドル高を是正することで合意(プラザ合意)するなど、西側陣営の政策協調の場として機能するようになっていた。しかし、基本的に西側陣営の盟主は米国のままだった。経済政策に関しても、1980年前後に「英国病5」を克服しようと動き出したサッチャー元英首相や、米国のレーガン元大統領が「新自由主義(Neo Liberalism)6」の経済政策に舵を切る一方、フランスではミッテラン元大統領が公共投資を増やし国有化を推進するなど一枚岩ではなく、小さな政府で自由を重んじる「新自由主義」と、大きな政府で人権や平等など社会的公正を重んじる「社会自由主義(Social Liberalism)」の間で揺れ動いた面はあるものの、基本的には市場メカニズムを生かすことで一人当たりGDPは右肩上がりで上昇した7。なお、そのころの成長エンジンは西側陣営内で進展し始めたグローバリゼーションだった。1970年から1990年までの一人当たりGDPの推移を見ると、西側陣営の盟主だった米国が年平均7.9%、西側陣営に属した日本が同13.4%、同じく英国が同11.1%、同じくドイツが同11.1%、同じくフランスが同10.7%だった(図表-4)。特筆すべきは米国の伸びよりも欧州や日本の方が高かった点である。1970年に米国の半分前後に留まっていた欧州の一人当たりGDPは1990年には9割前後まで近づき、1985年のプラザ合意で自国通貨が米ドルに対した大幅に値上がりした日本は米国を超えることとなった(図表-3、5)。
(図表-2)東西主要国の一人当たりGDP(1970年)/(図表-3)旧東西主要国の一人当たりGDP(1990年)
(図表-4)世界の一人当たりGDP(1970年~ソ連崩壊)
また、1978年に改革開放に舵を切った中国では、一人当たりGDPが1990年時点でも337ドルに留まっていた。1970年の112ドルと比べれば3倍になったとはいえ、米国と比べると70分の1、日本と比べると75分の1の水準であり、崩壊寸前の状態だったソ連と比べても8分の1しかないという極めて貧しい状況にあった(図表-3)。今からたかだか30年前のことである。

なお、1970年代には、第4次中東戦争を発端とする第一次石油危機(1973年)と、イラン革命を発端とする第二次石油危機(1979年)が起きた。この2度にわたる石油価格の高騰で、消費国ではインフレが深刻化するとともに、中東などの産油国へ所得が移転することとなった。そして、サウジアラビアの一人当たりGDPが一時は米国を上回ることとなった(図表-6)。なお、当時のソ連は世界の15~18%を産出する巨大な産油国だったが、西側陣営から輸入していた工業製品も値上がりしたため、その恩恵は小さく、1970年代の一人当たりGDPの伸びは米国を年平均2ポイント程度下回った。
(図表-5)世界の経済発展(1970年~ソ連崩壊)/(図表-6)石油ショックと一人当たりGDP
 
1 第二次世界大戦後1947年、米国の国務長官だったジョージ・マーシャルが提唱した「欧州復興計画(European Recovery Program)」である。米国がこの計画を実施した背景には、連合国間では「ドイツが潜在的な戦力となりうる科学技術力や重工業を保有している限り世界平和はあり得ない」との懸念があったものの、勢いづくソ連を封じ込めるにはドイツ経済の再興が必要との判断があったとされる。
2 第二次世界大戦後半の1944年、米国のニューハンプシャー州の保養地ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議で「ブレトン・ウッズ協定(Bretton Woods Agreements)」が締結された。1945年には「国際通貨基金協定」が発効し、米ドルと金との交換性を保証することで、米ドルと各国通貨の交換比率を一定に保ち(米ドル基軸の固定為替相場制)、戦後の西側陣営の経済復興を支えたとされる。
3 当初の加盟国は、ソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの6ヵ国。その後すぐにアルバニアが加盟したのに続いて、東ドイツ(1950年)、モンゴル(1962年)、キューバ(1972年)、ベトナム(1978年)が加盟することとなった(アルバニアは1962年に事実上脱退)。また、準加盟国としてユーゴスラビア、非社会主義協力国としてフィンランド、イラク、メキシコ、オブザーバーとしてアンゴラ、エチオピア、南イエメン、モザンビーク、ラオス、中国、北朝鮮が参加したが、中国と北朝鮮は途中から不参加となった。1991年6月に解散。基本的な構図としては、ソ連が第一次産品(原油やガスなど)を加盟国に供給し、その対価として完成品(農産物、工業製品、消費財など)を受け取るという貿易構造だったとされる。
4 加盟国は、ソ連、ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアの8ヵ国(アルバニアは1968年に脱退)。設立は1955年、1991年に解散。
5 基幹産業を国有化し、「ゆりかごから墓場まで」と称される充実した社会保障制度を整えたで、国民には重い社会保障負担がのしかかるとともに勤労意欲を失うことになり、経済活動が停滞した現象のことを指す。
6 政治的には「新保守主義(Neo-Conservatism、ネオコン)」と呼ばれる政治思想を採用し、国益よりも自由・民主主義のイデオロギーを重視し、それを世界に広げるためには武力介入も辞さないスタンスを取った。
7 「新自由主義」と「社会自由主義」の問題に関しては、欧州連合(EU)がリスボン条約などでも掲げられた「社会的市場経済(Social Market Economy)」や「国家資本主義」なども含めて、次回以降の「図表でみる世界経済」で改めて取り上げる予定である。
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