2016年06月15日

韓国における老人長期療養保険制度の現状や今後の課題―日本へのインプリケーションは?―

生活研究部 上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任 金 明中

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4――日本へのインプリケーション

韓国政府が日本の介護保険制度を参照しながら、老人長期療養保険制度を設計する際に、最も慎重に検討したのは、「財政安定」と「人材確保」のことだろう。つまり、どうすれば国の財政負担を最低限に抑えながら、制度を長く維持することができるのかと、どうすればサービスを提供する人材を育成し、市場に供給することができるのかに関心が集中していたと考えられる。そこで、韓国政府は日本でも議論はあったものの、実施までには至らなかった「全公的医療保険加入者の被保険者化」や「家族介護に対する現金給付の支給」を実施するとともに、「サービス利用時の自己負担割合」を日本より高く設定することにより、財政の安定と人材の供給不足を解決しようとした11

韓国では療養保護士という資格を取得した人が事業所に登録して家族を介護すると、現金給付が受けられる。制度の導入初期に介護を担当する人材が不足することを懸念した取り組みであり、ドイツの事例を参考した。但し、韓国における現金給付の利用は、島嶼、僻地等長期療養施設が足りない地域に居住している者、長期療養施設が実施するサービスの利用が出来ないと判断された者、身体・精神・性格等の理由で家族が介護を担当する必要がある者等に制限されている。家族から提供される介護サービスを利用する受給者には現金給付として1ヶ月当たり15万ウォンが支給される。これは療養保護士の月平均賃金130~150万ウォンに比べると、かなり低い金額である。つまり、韓国政府はすぐには療養施設が設立できない地域で家族現金給付を許可することにより、人材を確保するとともに老人長期療養保険の財政支出を抑制することができたのである。今後、介護労働者の賃金水準や勤労環境を改善しながら、現金給付の水準を見直す必要はある。

在宅介護に対して現金給付を実施しているドイツの場合も、現金給付の上限額を現物給付より低く設定することにより介護給付の総支給額を抑制している。しかしながら、韓国における家族に対する現金給付額はあまりにも低く、他の給付を同時に利用することができない。より現実的な給付が行われるように制度を改正する必要がある。

日本でも介護保険制度を導入する前に現金給付の導入に対する議論があったものの、介護の社会化が重視されるなかで、家族に対する現金給付は「家族を介護に縛り付ける」といった反発が強く導入には至らなかった。しかしながら介護保険の導入初期と比べて日本の状況は大きく変わっている。つまり、2000年に17.3%であった高齢化率は、2014年には24.0%まで上昇した。また、2000年に1.36であった合計特殊出生率は2015年には1.46に少し改善されたものの、まだ人口の置き換え水準である2.07を大きく下回っており、このまま少子高齢化が進むと、労働力不足により将来の日本経済の成長が阻害されることが懸念されている。また、介護保険の総費用は2000年度の3.6兆円から2012年度には8.9兆に2倍以上にも増加しており、国の財政を圧迫する要因になっている。また、65歳以上高齢者の保険料も第1期(2000~2002年度)の2,911円から第6期には5,514円(2015~2017年度)まで増加しており、高齢者の負担もますます大きくなっている。高齢者の所得水準を考えると保険料の引き上げは限界に近づいていると言えるだろう。

そこで、ドイツや韓国が導入している現金給付を日本に導入することは労働力の確保や財政の支出抑制という面からある程度効果があるかも知れない。現在の日本の介護保険制度は、介護ができる家族(配偶者、子など)がいる場合でも、介護保険制度を通じて1割12の自己負担で家族以外の他人から介護してもらう仕組みである。つまり、「介護保険」という制度に加入(40歳を超えると自動的に)することにより介護というサービスが必要になったときに、等級別の上限額はあるものの介護というサービスを9割割引された金額で購入でき、そこから効用が得られる。この効用は制度を利用したからこそ得られるものであり、家族に対する現金給付が実施されていない状況の中で、その大きさは家族から同じサービスを提供してもらった時の効用の大きさを大きく上回る。その結果、介護保険制度に対する需要は増える一方、家族介護に対する需要は減ることになる。しかしながら家族介護に対して現金給付を支給すると、両者の間に発生していた効用の格差が縮まり、家族で介護が可能な家庭もあることを踏まえれば家族以外の他人に偏っていた需要が一部は家族に戻るようになるだろう。たとえ、家族介護に対する現金給付が現物給付の水準に至らなくても、家族から介護をしてもらうことの効用がその差をある程度縮めてくれると考えられる。しかしながら家族介護に対する現金給付があまり効果的ではない場合も存在する。たとえば、日本の離島・僻地など過疎地域には民間の介護施設が進出しておらず、そもそも介護サービスを十分に利用できないケースが多く、都市部との介護格差が問題になっている。さらに、これらの地域には高齢化率が高く、介護サービスが提供できる家族もいない世帯が多いので、家族介護に対する現金給付のメリットを生かすことはなかなか難しい。どうすればより多くの人が制度の恩恵が受けられるのか、知恵を絞る必要がある。

また、被保険者の範囲についても検討すべきである。介護保険創設時に介護保険の被保険者を40歳以上とした理由は、(1)40歳以上になれば、初老期における認知症や脳卒中などの加齢に伴う疾病による介護ニーズ発生の可能性が高くなることと、(2)40歳以上になれば自らの親も介護を必要とする可能性が高くなるので、費用を負担しても理解を得られることであった。しかしながら、高齢化はさらに進んでおり、高齢者の負担や給付費が増加し続けている現実を考慮すると、支え手である被保険者の拡大を考える必要があり、議論を十分に尽くすべきである。

さらに、海外の制度を参考にサービス利用時の自己負担割合や介護等級の見直しを慎重に考慮すべきである。
 
11 但し、日本では重度(要介護度4または5)の低所得高齢者を介護している家族を慰労する目的で、家族介護慰労金が支給されている(例えば東京都新宿区の場合は年額10万円)。慰労金を支給されるためには、次の条件を満たす必要がある。
・高齢者が介護保険の要介護認定で、1年間を通じて要介護4または要介護5と認定されている。
・高齢者が要介護認定後、1年間介護保険のサービスを利用していない。(年間1週間程度のショートステイ利用を除く)
・高齢者、介護者とも住民税非課税世帯である。
・介護者が高齢者と同居、もしくは隣地に居住するなど事実上同居に近い形で介護している。
12 2015年の8月から、65歳以上の所得上位20%にあたる年間所得160万円以上の方が、介護保険のサービスを利用する時の自己負担割合は2割に引き上げられた。

5――おわりに

5――おわりに

韓国で老人長期療養保険制度が施行されてから今年で8年目を迎えている。施行初期には人材や施設、そして認知度の不足などで制度がうまく動くか懸念されたこともあったものの、何とか制度として定着することになった。但し、問題がないわけではない。本文でも言及したように韓国の少子高齢化のスピードは他に類がないほど早く、老人長期療養保険制度の申請者や認定者数はこれから急速に増加することが予想されている。韓国は日本の制度を参考として財政的な負担を最小化する形で老人長期療養保険制度を導入したものの、今後制度の持続可能性を維持するためには新しい財源を確保するための工夫が必要である。韓国の老人長期療養保険制度に対する財政支出は2014年現在4.2兆ウォンで、これは同時期のGDP1,485兆ウォンの0.28%に過ぎない水準である。日本の介護保険総費用の対GDP比1.87%に比べるとかなり低い水準であることが分かる。このような韓国政府の低い財政支出は療養保護士など老人長期療養保険関連施設で働く労働者の賃金や処遇水準を低くした要因になっている可能性が高い。そこで、将来的により安定的な労働力を供給するためには、また多くの若者が老人長期療養保険関連施設で働くようにするためには、療養保護士など老人長期療養保険のサービスを担当する労働者の処遇水準や勤務環境を改善する必要があり、そのために韓国政府は新しい財源を確保し政府支出を増やす必要がある。

老人長期療養保険制度に対する満足度調査では、サービスに対する満足度が高く現れたものの、この結果はサービスの質の高さの満足度というよりは、今までなかった制度が利用できるようになったことに対する満足度、制度が導入されたことによって一部の負担でサービスが利用できるようになった満足度がより大きかったのではないかと考えられる。そこで、今後はサービスの先進化や質的水準を向上する等利用者がサービスの質に対しても満足できるように努力すべきである。

日本の介護保険制度を参考として導入された韓国の老人長期療養保険制度が様々な問題点を抱えながらも高齢者のための制度として定着しようとしている。日本の高齢者関連政策は韓国より成熟しており、韓国から学ぶことはあまりないかも知れない。しかしながら日本を上回るスピードで少子高齢化が進んでいる韓国社会に対する韓国政府の対策は、同じ悩みを抱えている日本にとっても参考になることはあるだろう。韓国政府が今後予想される急速な少子高齢化社会にどのように対応して行くのか関心を持って見守ってみよう。
参考文献
韓国語
  • イゾンソク・イホヨン・ゴンジンヒ・ハンウンジョン(2014)「長期療養機関従事者の賃金及び勤労環境に関する実態調査」研究報告書2014-10、国民健康保険公団健康保険政策研究院
  • 韓国統計庁「人口動態統計」各年度、
  • 韓国老人福祉中央会政策研究所(2012)「長期療養機関運営及び賃金実態変化に関する研究」
  • 国民健康保険公団(2015)『2014年老人長期療養保険統計年報』
  • 国民健康保険公団健康保険政策研究院(2016)「老人長期療養サービス利用度実態及び満足度調査」
  • 国民健康保険公団・健康保険審査評価院(2015)『2014年健康保険統計年報』
  • ソクゼウン(2015)「老人長期療養保険施行7年、韓国長期療養政策パラダイムの省察と転換」『韓国社会保障学会定期学術発表論文集』2015巻1号
  • ジョンウンハ・ジャンミンギョン(2012)「長期療養施設運営改善方案研究―受給者優先施設を中心に」ソウル特別市&ソウル福祉財団
  • 老人長期療養保険制度ホームページ「老人長期療養保険等級判定結果現況資料(2015年8月基準)」
 
日本語
  • 介護労働安定センター(2014)「平成25年度介護労働実態調査結果」
  • 介護労働安定センター(2009)「平成19年度介護労働実態調査結果」
  • 金明中(2015)「日韓比較(3):高齢化率 ―2060年における日韓の高齢化率は両国共に39.9%―」研究員の眼、2015年07月08日
  • 金明中(2009)「日・韓医療保険と介護保険制度に対する比較分析- 制度の誕生と発展過程による分析 -」、清家 篤・駒村康平編著(2009)『労働経済学の新展開』慶應義塾大学出版会
  • 金明中(2009)「韓国における高齢化の進展と介護保険制度の導入」ニッセイ基礎研REPORT  2009年7月号
  • 齋藤香里(2013)「ドイツの介護者支援」『海外社会保障研究』Autumn 2013,No.184
  • 内閣府(2015)『平成27年版高齢社会白書』
  • 老人長期療養保険制度ホームページ「老人長期療養保険等級判定結果現況資料(2015年8月基準)」
 
英語
  • OECD(2016)Government at a glance 2015
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生活研究部   上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任

金 明中 (きむ みょんじゅん)

研究・専門分野
労働経済学、社会保障論、日・韓における社会政策や経済の比較分析

経歴
  • プロフィール
    【職歴】
    独立行政法人労働政策研究・研修機構アシスタント・フェロー、日本経済研究センター研究員を経て、2008年9月ニッセイ基礎研究所へ、2023年7月から現職

    ・2011年~ 日本女子大学非常勤講師
    ・2015年~  日本女子大学現代女性キャリア研究所特任研究員
    ・2021年~ 横浜市立大学非常勤講師
    ・2021年~ 専修大学非常勤講師
    ・2021年~ 日本大学非常勤講師
    ・2019年  労働政策研究会議準備委員会準備委員
           東アジア経済経営学会理事
    ・2022年~ 亜細亜大学都市創造学部特任准教授
    ・2021年  第36回韓日経済経営国際学術大会準備委員会準備委員

    【加入団体等】
    ・日本経済学会
    ・日本労務学会
    ・社会政策学会
    ・日本労使関係研究協会
    ・東アジア経済経営学会
    ・現代韓国朝鮮学会
    ・韓国人事管理学会
    ・博士(慶應義塾大学、商学)

(2016年06月15日「基礎研レポート」)

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