1993年05月01日

平和の配当

細見 卓

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ベルリンの壁が崩壊し、冷戦の終結を迎えてから既に相当の歳月が経過した。冷戦が終結し、世界から大規模戦争の脅威が消滅した暁には巨大な平和の配当が実現し、世界は新たな繁栄の日を迎えるものと信じられていた。確かに軍事的脅威の消滅はいくつかのメリットをもたらす筈である。まず軍事予算の大幅な削減が可能となり、それは国民の税負担を軽減するものに違いない。また産業面においては軍事産業が縮小ないし廃止されて、それが民需に転換することによって国民生活に大きな豊かさを与える筈である。とりわけ、先端技術を独占していた軍事産業の機密が開放されることによる民需産業の飛躍的な発展、更には軍人の復員によって新たな民需用の労働力が確保され、経済の平和的な繁栄が来るものと期待されていた。

しかしながら、冷戦終結後の推移を見るとこのような期待は過大なものであり、現状は混沌として軍事中心から民政中心への転換の困難と混乱を示している。ドイツ等は冷戦終結によって税負担の軽減どころか東西統一のための新たな税負担をもたらし、又、軍需から民需への転換は従業員の配置転換を含めて様々な困難に直面して捗々しい進捗は見られない。むしろこのような軍需から民需への転換の困難さから逃れるために世界各地での武器輸出は冷戦時よりも激しく、巨大な動きとなっており、経済的に余力のある地域に破壊力の大きい武器の集中輸出が行われ、それがアジアや中東の新たな攪乱要因になろうとしている。又、復員したロシアの軍人の如きは帰国を願っても住むべき住宅も提供されない状態で、ましてや新しい就業の機会は絶望的である。この状態はロシアに限らず、殆どの先進工業国でも同様に失業者の増加に悩んでおり、復員軍人や軍需産業の失業者の救済は程遠い状況である。

このようにすぐにも期待できたかに見えた経済的な平和のメリットすら実現できないままに、世界経済は全体として依然不況の色を濃くしており、一部回復が見られるとしても遅々たるものである。このように折角の平和の配当が経済的には実現せず、期待外れに終わったのであるが、一方、政治的な意味での平和の配当ということになれば、更に悲惨な状況にある。軍事大国の強圧から開放された国々では民族主義が無秩序にはびこり、従来からの国家の枠組みが世界中のあちこちで壊れている。中でも旧ユーゴスラビア、ソマリア、カンボジアといった地域の政治的・社会的安定は当面望めそうもない。

冷戦終結が大きな平和の配当を政治的にも経済的にももたらすであろうという期待が大きかっただけに、それが実現しないことに対する不満や反動は予想以上に大きく、世界を混沌とさせている。軍事的紛争にまで立ち至っている国々もかなりの数に上るが、更に残念なことには、これまで比較的には政治的な安定を享受してきた先進工業国においても冷戦のもたらした副作用として、いずれの国々も政権が不安定なものとなっており、国内紛争処理の不手際を理由に世界中の大半の政治家は国民の信を失っている。

二大軍事大国による長い冷戦は世界を二つの陣営に分断しただけではなく、それぞれの陣営に対して政治的・経済的・社会的な圧力と影響を及ぼし、その冷戦の終結はそれぞれの国の社会の基本構造をも崩すような影響を与えた。つまり、第二次大戦は米国を除く交戦国の産業設備をことごとく破壊したけれども、社会制度そのものを破壊するまでには至らず、従ってマーシャル・プランやガリオア・エロア資金による経済的な援助の手が差し延べられると容易に社会秩序が復活し、経済的にも倍旧の回復を示すことができた。それに反し、今回の冷戦によって破壊されたのは直接的には共産圏の政治経済社会システムであったけれども、それに対するマーシャル・プランのような救済・治癒策の準備が戦勝国側になかっただけではなく、自らの体制にも大きな亀裂が生じてしまったのである。確かに共産主義に対して市場経済は勝利を治め、一党中心の思想統制に対して言論・思想の自由が打ち勝ったことは事実であろう。しかしながら、イタリアや日本等に見られる如く、万難を排しでも共産主義だけは排除しようという体制をとっているうちに、政治経済社会の規律やシステムの中枢がいつの間にか大きく傷んでしまったところもあり、単純に自由主義・民主主義の勝利とはいえないのは明らかである。今次冷戦の戦勝国側の体制にもひびが入り、政治的戦敗国である旧共産主義圏や経済的敗戦国に近い発展途上国に対し、米国をはじめとする先進工業国のリーダー達が勝利者として余裕と自信をもって戦後処理にあたれない状態では、平和の配当の実現と世界秩序の構築による繁栄への道のりはとても容易なものではないようだ。

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