2018年02月05日

「スプレッド」(期待運用収益率‐割引率)の上昇の意味

東京理科大学経営学部 柳瀬 典由

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確定給付型の企業年金(DB年金)における加入者・受給者の利益確保の問題は極めて重要な問題である。その一方で、DB年金の最終的なリスクを負担するのは原則、母体企業であり、その株主である。こうしたなか、特に欧米を中心に、母体企業の株主の利害の観点から、経営者が年金資産運用や積立政策など、各種の企業年金政策に介入するインセンティブがあることが議論されてきた。

企業年金の財政状態は、年金資産運用に関する期待収益率や年金債務計算上の割引率をはじめとして、様々な保険数理上の仮定に依存する。そして、この仮定をどのように置くかという点については、一定の制約のもと、経営者裁量の余地が存在する。そうであるならば、経営者が、DB年金の財務健全性や加入者・受給者保護の観点のみならず、それ以外の母体企業の経営上の利害の観点から、保険数理上の諸仮定の操作を通じて、裁量的に企業年金財政に影響を及ぼす行動をとる可能性は排除できない。

この点に関しては、Bergstresser et al. [2006] の論考が有益な示唆を提供している1。彼らは、保険数理上の諸仮定のうち、期待運用収益率の設定という経営者裁量の問題に注目した実証研究を行っている。そもそも、期首の年金資産残高に対して、期待運用収益率を乗じることにより計算される期待運用収益は、退職給付費用のマイナス(減少)項目となる。したがって、その金額が大きく見積もられた場合には、退職給付費用が小さくなり、企業損益を増加させる。Bergstresser et al. [2006] が行った米国企業を対象にした実証研究の結果によれば、経営者は、自社がM&Aの準備に入っているような場合に、年金資産運用に関する期待収益率を高く設定する傾向があることを実証的に示している。すなわち、母体企業の投資戦略が年金会計上の諸仮定を通じて企業年金財政の見積値に影響を与えることになる。
 
1 D. Bergstresser、 M. Desai、 and J. Rauh、 Earnings Manipulation、 Pension Assumptions、 and Managerial Investment Decisions、 Quarterly Journal of Economics 121(1)、 pp.157-198、 2006.
それでは、期待運用収益率に母体企業ごとに何らかの差異が認められるのだろうか。この点、企業固有の各種要因をコントロールした上で分析すべきところではあるが、さしあたり、わが国上場企業の期待運用収益率の分布を簡便に確認してみよう。但し、期待運用収益率そのものではなく、期待運用収益率から割引率を差し引いた差を示す指標(「スプレッド」と定義)の推移を見る。というのも、「スプレッド」は、各DB年金に固有の割引率を基準とした場合に測られる期待運用収益率という意味合いをもつからである。いわば、修正された期待運用収益率である。たとえば、「スプレッド」が大きくなるのは、低金利環境で割引率がかなり低いにも関わらず、年金資産運用において、株式比率を高めるなど積極的な運用方針等を採用しているため、期待運用収益率が高めに設定されるような場合である。このような解釈にもとづけば、「スプレッド」は、母体企業の経営者による年金資産運用のリスクテイクの程度を捉えている可能性がある。

図表は、2001年3月期決算(2000年度)から2017年3月期決算(2016年度)までの17年間の「スプレッド」の平均値の推移を示している。これによれば、特に企業ごとに計算された「スプレッド」の年度ごとの平均値は、2012年度以降、急激に上昇していることが分かる。もちろん、これは、単純に、アベノミクスの影響を反映しているのかもしれない。つまり、低金利(ゼロ金利)環境下において割引率が低下傾向にあるなか、その一方で、アベノミクスによる国内株式相場の上昇により、期待運用収益率を高めに設定する企業が増えているのかもしれない。その結果、「期待運用収益率-割引率」で計算される「スプレッド」が大幅に上昇しているという解釈である。とはいえ、標準偏差も上昇していることから、企業間で期待運用収益率の設定方針の差異が拡大しているという解釈も可能である。もちろん、「スプレッド」が、母体企業の経営者による年金資産運用のリスクテイクの程度を素直にとらえているわけではないという可能性も十分にある。これらのことから、保険数理上の諸仮定の操作を通じて、裁量的に企業年金財政に影響を及ぼす行動がとられる可能性を排除できない以上、例えば、「スプレッド」のような指標の動きから、何らかの興味深い示唆を得ることができるかもしれない。
図表:「スプレッド」(期待運用収益率-割引率)の推移
 
2 米澤康博、大野早苗ほか著、『マイナス金利と年金運用』金融財政事情研究会、2017年。なお、分析で用いたサンプルは、1.各年度3月決算企業、2.決算月数12か月、3.東証による業種33中分類のうち、「銀行、保険、証券等、その他金融、その他」を除く一般事業会社、という条件をみたす全ての日本の上場企業である。こうした条件をみたすサンプルから、各種の退職給付関連データが入手可能である企業をセレクションする。検証期間は最大2001年3月期決算(2000年度)から2017年3月期決算(2016年度)までの17年間である。
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東京理科大学経営学部

柳瀬 典由

研究・専門分野

(2018年02月05日「ニッセイ年金ストラテジー」)

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