2017年07月18日

近づく英国の国民投票-経済的コストへの警鐘が相次いでも落ちないEU離脱支持率

経済研究部 常務理事 伊藤 さゆり

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2|英国財務省などの試算-いかなる協定を締結しても経済にはマイナス
英国の有権者は、移民の急増を問題視しつつも、国民投票での判断で最も重視すると答えた割合が高いのは「英国経済への影響」だ(図表10)。

残留への支持を訴える英国政府や英国内の研究機関、国際機関など試算では、「英国経済への影響」を最も重視するならば、残留支持が適切な判断ということになる。試算の結果には、EUとの関係に関する前提の置き方や、波及経路として考慮する要因によって変わるが、離脱派が主張する規制やEUの拠出金に関する負担を上回るという結論は一致する。

英国政府は、EUとの新たな加盟条件の交渉が終わり、国民投票のスケジュールが確定してから、有権者の判断材料となる報告書を逐次公表している。3月にはEUから離脱した場合に英国が採りうる選択肢を検討とした報告書を公表している5(図表11)。

選択肢として検討したのは、ノルウェー、アイスランド、リヒテンシュタインというEU未加盟国がEUの単一市場に参加する枠組みであるEEAへの参加、スイス、カナダ、トルコのような二国間協定の締結、特別な協定は締結せずWTOルールに従う場合である。EEAに参加すれば金融業を含むサービス分野でも特権的アクセスを確保できるが、その見返りに離脱派が嫌うEUルールを受け入れ、EUに一定の拠出を行い、ヒトの移動の自由も受け入れている。レベルの高いFTAの場合も、スイスの場合は、該当する領域のEUルールを受け入れ、EU新規加盟国に援助などを行い、ヒトの移動の自由も受け入れている。

これらの選択肢に対し、国民投票が残留多数となった場合に実現する「新条件の加盟」は、EU法への投票権とEU市場へのアクセスという権利を享受できる上に、「通常のEU加盟」と異なり、国益を損なう義務は課されないことから、最も有利という結論だ。

4月には英国財務省が、BREXITが貿易、直接投資、研究開発投資(R&D)投資、生産性を通じて長期的に及ぼす影響を試算した報告書を公表している6。EEAに参加し、完全ではないものの、高いレベルのEU市場へのアクセスを確保する(以下、EEAケース)、EEAほどではないものの、レベルの高いFTAの締結で特権的なアクセスを確保する(FTAケース)、WTOルールに従う(WTOケース)という3つのケースについて、EUに残留した場合との15年後のGDPや1家計あたりの所得のかい離幅を算出している。最も影響が小さいEEAケースでも、EU残留の場合に比べて、GDPで3.8%、一世帯当たり所得水準は2600ポンド(1ポンド=155.65円換算で40万4690円)低くなる。中位シナリオのFTAケースでは同6.2%、同4300ポンド(同66万9295円)。EEAやレベルの高いFTAの場合には、離脱派が嫌うEUへの拠出金やEUの法規制の適合などが必要になる。これらの負担から逃れられるWTOケースは、同7.5%、同5200ポンド(同80万9380円)とマイナスの影響は拡大する。
図表11 新条件でのEU残留に替わる選択肢の権利と義務
CBI(英国産業連盟)の委託によるPwcの報告書(以下、CBI/Pwc)7、LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)の経済パフォーマンスセンター(CEP)の報告書(以下、LSE/CEP)8は、BREXITの短期の影響と長期の影響についてFTAケースとWTOケースについて試算を行なっている。LSE/CEPの試算は貿易面での影響と財政負担軽減の効果のバランスを算出したものであり9、CBI/Pwcは、貿易・直接投資の他に、短期の影響として不確実性の高まり、移民流入の減少やEU規制の軽減効果などを含めて試算している。FTAケースの方がWTOケースより悪影響が抑えられるという結論は英国財務省の報告書と共通する。
図表12 英国財務省などによるEU離脱の英国経済の影響に関する試算結果
OECD(経済協力開発機構)の報告書10も短期の影響と長期の影響について試算している。想定されているのは、「18年後半にEUを離脱、19年から23年にかけてEUとの新たなFTA交渉と移民削減のための政策が実施される」シナリオだ。短期の影響としては、不確実性の高まりによるリスク・プレミアムの上昇と信頼感の低下、さらに貿易と移民の減少を考慮し、長期の影響として貿易、直接投資、R&D投資、移民減少、さらに競争圧力の低下によるマネージメントスキルの低下と幅広い要因を考慮し、EUへの拠出金やEUの法規制に関わるコスト軽減効果とのバランスを算出している。CBI/Pwcは、新たな環境への調整が進展するとみて、GDPへのマイナスの効果は、短期の方が長期より大きい(FTAケースでは短期が3.1%、2030年までの長期が1.2%)と見ているが、OECDの場合は、2020年までの短期が3.3%、2030年までの長期が5.1%で、マイナスの影響は長期の方が短期より大きいと見ている。

EUの拠出金の節減効果は、英国が払い戻しも受けていることから、CBI/Pwcは年間でGDPの0.5%程度、OECDは同0.3~0.4%で限定的としている。規制のコストに関しても、OECDは、英国の労働市場や財市場が先進諸国の中でも最も柔軟と評価されていることから、離脱によるコスト節減の効果はごく限定的と評価している。CBI/Pwcは2030年まででGDPの押し上げ効果は0.3%程度と見ている。移民に関しては、CBI/PwcはEUからの未熟例労働者の減少を想定する一方、FTAケースでは高技能労働者は流入すると見ているが、OECDは、EU移民への制限だけでなく、成長の鈍化で英国が移民を引き付ける力も低下すると評価している。

IMFも16年5月13日に公表した16年度の「4条協議」の声明文11でEU離脱を英国経済の最大のリスクとして指摘した。EU及びEU域外との交渉のために数年単位で著しく不透明な過渡期が続くことが需要を抑制、市場のボラティリティーを高める。株・不動産価格の下落、企業や家計の借入コストの上昇、経済活動の萎縮という負のサイクルに陥るリスクが、高水準の経常赤字によって増幅する可能性があると指摘する。長期的な影響は、EU域内外との協定の内容次第であるため幅を持って考える必要があるが、貿易、投資、生産性を通じてGDPも低下するため、財政にも生じる悪影響はEUへの拠出額を上回るという見解を示した。
 
5 HM Government(2016b)
6 HM Government(2016c)
7 Pwc (2016)
8 Dhingra, S., G. Ottaviano, T. Sampson and J. Van Reenen (2016a)
9 直接投資の効果については、Dhingra, S., G. Ottaviano, T. Sampson and J. Van Reenen (2016b)で直接投資が22%減少し、GDPが3.4%低下すると試算している。
10 OECD(2016)
11IMF(2016b)。4条協議はIMF協定第4条が規定する加盟国の経済政策に関する包括協議。通常は年1回実施
3|離脱派の主張と試算結果のギャップ
各機関の試算と離脱派の主張はどの点で異なるのか。3つの論点を指摘したい。

1つはEU市場のアクセスが制限されることの英国経済のダメージに関する見方の違いだ。離脱派は、この点についてデータに基づく踏み込んだ議論を展開していないが、各機関の試算では、そろってEUの拠出金の節減効果を上回るという結果だった。

2つめは、EU市場への特権的なアクセスの確保とEUへの拠出やEUルールなどのコスト負担に関する見方の違いだ。離脱派は、離脱によってコスト負担から解放されることをベネフィットとして強調するが、現存する枠組み(図表11)を見る限り、EU市場に特権的なアクセスを確保しようとすれば、ある程度のコスト負担は避けられない。

確かに、離脱派が主張するように、大国である英国は、ノルウェーやスイスよりも有利な条件を得られる可能性はあるが、レベルの高い合意を目指せば、交渉に時間を要するだろう。EUが韓国やメキシコと結んだFTAでは交渉に4年を要し、スイスとの交渉には10年の時間を要した12。カナダとの包括的経済協定(CETA)は、14年に交渉開始から5年で合意に達したが、まだ、調印・批准には至っていない。EUの中核国であるフランスとドイツが17年に選挙を予定している政治的なサイクルや、英国に続く離脱を阻止する観点からも、内容を吟味する必要があることから、数年単位の時間を要することは間違いないだろう。

3つめは、英国とEU域外の相手国・地域との交渉に関する見方だ。離脱派の主張のように、EU加盟国としてよりも、英国単独の方が、国際社会での発言権が増し、EU域外国とより有利な協定を締結できるとは想定されていない13

米国はEUとTTIPを交渉中、日本はEPAを交渉中だが、ともに英国のEU残留を望み、貿易交渉では大市場優先の立場を明言している。オバマ大統領は今年4月の訪英時、「国民投票結果は米国にとっても重大な関心事」であり、「英国は強いEUを先導する助けをしている時が最善の状態」で「EU加盟国であることで英国の権限は強化されている」として、残留が英国の国益にかなうという見解を表明した。一連の発言の中でも、「米国の通商交渉は大市場を優先する。(離脱すれば)英国は最後列に並ぶことになる」とも発言、離脱派の楽観的主張を真っ向から否定した14

日本も、16年5月26~27日開催のG7サミットを前に英国を訪問した安倍首相が、5月5日の日英共同記者会見で、「英国がEUに残留」することが「日本から英国への投資にとって最善」であり離脱は「EUのゲートウェイ」としての英国の魅力を損なうと述べている。貿易交渉では「大きな貿易圏であるEUとの交渉を個別国より優先している」ことを明言した。

中国も、日米と同じ残留支持の立場だが、貿易交渉では異なったスタンスをとる可能性がある。15年10月に習近平主席が英国を訪問時、英中首脳会談で「中国は繁栄する欧州、団結するEUを希望する。英国がEUの重要な加盟国として中国とEUの関係深化により積極的で建設的な役割を果たすことを望む」と述べており、公式な立場は残留支持である。

但し、欧州でのFTAに関して、中国は、EUよりも先にEU域外国との締結に動いているため、離脱後の英国がEUよりも先行する可能性はある。しかし、中国と欧州諸国のFTA交渉を見ると、アイスランドの場合で発効まで7年、スイスの場合で5年、ノルウェーは9年経過してもまだ発効に至っていない。英国とのFTAに動くとしても、発効までに年単位の時間がかかると見るべきだろう。英国政府は、中国が提唱したアジアインフラ投資銀行(AIIB)への出資を逸早く表明、10月の習近平主席の訪英時には、複数の原子力発電所の建設計画に中国企業が参加することなどで合意するなど中国への傾斜が目立つ。中国経済は、一時期の勢いを失ったとはいえ、市場の規模と成長性では圧倒している。人民元の国際化もロンドンの国際金融センターとして魅力を高める上で取り入れていきたい思いは強いだろう。こうした背景から、中国との交渉では、英国側の譲歩が目立つという批判もあり、FTAが英国にとって有利な内容にまとまるかは不透明だ。EUから離脱することが、英国企業がフランスやドイツ企業などよりも中国市場へのアクセスで有利な条件を勝ち取ることができるのかどうかは未知数だ。
 
12 OECD(2016)による
13 CBI/PwCのFTAケースでは米国との貿易交渉の加速を想定している。
14 今年11月に予定される大統領選挙の候補者選びで共和党の指名獲得が確実になったトランプ氏はテレビインタニューで「移民の多くがEUにより押し出された」ことから「EUを離脱した方がずっと良いと思う」と述べている。
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経済研究部   常務理事

伊藤 さゆり (いとう さゆり)

研究・専門分野
欧州の政策、国際経済・金融

経歴
  • ・ 1987年 日本興業銀行入行
    ・ 2001年 ニッセイ基礎研究所入社
    ・ 2023年7月から現職

    ・ 2011~2012年度 二松学舎大学非常勤講師
    ・ 2011~2013年度 獨協大学非常勤講師
    ・ 2015年度~ 早稲田大学商学学術院非常勤講師
    ・ 2017年度~ 日本EU学会理事
    ・ 2017年度~ 日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
    ・ 2020~2022年度 日本国際フォーラム「米中覇権競争とインド太平洋地経学」、
               「欧州政策パネル」メンバー
    ・ 2022年度~ Discuss Japan編集委員
    ・ 2023年11月~ ジェトロ情報媒体に対する外部評価委員会委員
    ・ 2023年11月~ 経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 委員

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