2017年07月05日

ますます巨大化する米国の大手医療保険会社-国民に医療保障を届ける唯一無二の存在へ-オバマケアの帰趨に左右されない強さ

松岡 博司

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はじめに

ビル・クリントン氏が大統領に就任した1993年、ファーストレディとなったヒラリー・クリントン氏は、ホワイトハウスの西館に執務室を構え、厚生、財務、商務、労働等の各長官や補佐官たちで構成される医療保険制度改革作業委員会を主導、その年の秋に医療制度改革法案を上程した。

「マネージド・コンペティション(管理下の競争)」という概念をバックボーンに考案された改革案は、無保険者の多くが被用者またはその家族であることに着眼し、全ての企業は従業員とその家族に対して民間保険会社の医療保険を提供しなければならないこととするものであった。あわせて公的医療保険を充実させ、米国民全てが医療保障を受けられるようにする。被用者が転職により医療保険を乗り換えるときには、保険会社は既往症や年齢等を理由として加入を拒むことができない。保険料の支払いが困難な小規模企業や低所得層に対しては連邦政府が補助金を支給する1

長時間に及ぶ議会での討論を堂々とこなしたヒラリー氏は、新しいファーストレディ像を示したともてはやされたが、けっきょく、この改革案は実現には至らなかった。

共和党政権をはさんで、次に民主党で政権をとったオバマ大統領は医療保険改革を最優先課題として就任し、いわゆるオバマケアを実現した。オバマケアにより、各個人は民間医療保険への加入を義務付けられ、従業員50人以上の企業は従業員とその家族に民間医療保険を提供することを義務づけられた。ヒラリー氏が提唱した方策の多くはオバマケアに通ずるものがある。

米国で盲腸の手術を受けると何百万円もの診察料・手術料を請求されるという話を聞いたり読んだりした方は多いだろう。米国では病気になったら破産するしかないと身構えて暮らしている人が多いとも聞く。2013年の米国における自己破産の62%が医療費を原因とするものであった。また米国民の5人に1人が医療費に関する債務を抱えていたという2

米国には、わが国のような全ての国民が加入する公的な医療保険制度がない。オバマケアが一定の成果を挙げた2015年末でさえ、国民の9%が無保険状態にある3。世界の国々が見習うべき最先端モデルというイメージの強い米国社会のこの状況はいったい何なのだろうか。

米国の生保業界を研究していて、どうしてもぬぐえないでいる違和感は、なぜ国が補助金まで出して国民を民間保険会社の医療保険に加入させなければならないのかということである。

その背景には、公的な医療保険を自主独立の精神を崩すものと嫌う国民感情もあるだろう。しかしそれ以上に、米国の人々の生活に深く入り込んだ民間医療保険会社の存在の大きさがあるように思う。官を補完するのでも官と競合するのでもなく、官に代わって国民への医療保障の提供を一手に引き受け、彼らなしには医療保障が立ち行かないという状況を築き上げた。

米国の医療保障は民間の医療保険会社が担っている。

わが国では郵政民営化の折り、「民でできることは民で」というかけ声が市民権を得た。その伝で行くと、米国の医療保険の状況は最優等生のように思われる。しかし、その結果が多くの落伍者を出す自己責任の医療マーケットとは。

オバマケアの撤廃を訴えてヒラリー氏と大統領選を戦い勝利したトランプ氏は、2017年1月の大統領就任とともに公約の実行に着手、その意を受けた共和党は、オバマケアの枢要部分を撤廃または形骸化し、その代替策を構成する法案の取りまとめを急いだ。3月初旬に発表された当初案は約3週間で撤回されるなど拙速が目立ったが、その後修正を加えた法案(American Health Care Act、通称トランプケア)が、5月4日、下院で僅差ながら可決された。

5月24日、議会予算局(CBO)は、同法案が施行されると、2026年までに無保険者数が2,300万人増えるとの試算結果を発表した。法案の審議は上院に移されることとなったが、上院での審議が難航することも予想されており、法案が最終的にどのような形になるかを予測することは難しい4

現状、米国医療保険制度の先行きは不透明である。

とはいえ、どのように環境が変わっても、米国の大手医療保険会社はたくましく生き抜き、より強力になろうとし続けるだろう。本レポートを読んでいただけば、オバマケアが撤廃された方が米国の医療保険会社にとって好都合なのではないかとさえ思われるかも知れない。

本稿は、大統領が交代し、オバマケアに一区切りがつけられた現時点を好機と考え、大手医療保険会社を中心視座においた形で、米国医療保険制度の概要とオバマケアのこれまでを見ていこうとするものである。
 
1 武藤弘明「米国医療保険制度改革の行方」生命保険経営第61巻第6号(1993年)
http://www.seihokeiei.jp/pdf/SK/SK6106/SK6106-04-H05.pdf
永島英器「米国医療保険制度の改革」生命保険経営第62巻第5号(1994年)
http://www.seihokeiei.jp/pdf/SK/SK6205/SK6205-07-H06.pdf
2 「Medical Debt, Medical Bankruptcy and the Impact on Patients」National Patient Advocate Foundation The Patient Voice  August 2014 https://www.npaf.org/wp-content/uploads/2017/07/Medical-Debt-White-Paper.pdf より
3 「Health Insurance Coverage in the United States: 2015」U.S. Census Bureau http://www.census.gov/content/dam/Census/library/publications/2016/demo/p60-257.pdfより
4 上野まな美「オバマケアからトランプケアへ向かう米国 トランプ政権がオバマケア撤廃・置換へと公約の有言実行を目指す」大和総研リサーチ(2017年4月25日)http://www.dir.co.jp/research/report/overseas/usa/20170425_011934.pdf
 

1――米国の医療保障制度の概要

1――米国の医療保障制度の概要

1|突出して高い米国の医療費
JTBが発表した『2015年度海外旅行保険事故データ』には、 米国旅行中のシニアが意識を失い救急車で搬送され、心不全で25日間入院した事例の海外旅行保険金の支払いが2,347万円に及んだ事例が紹介されている(表1)。
表1 高額医療費用事故(治療・救援費用保険金支払) TOP 5
また外務省ホームページの『世界の医療事情』コーナー中の「在外公館医務官情報」には、世界各地の医療に関する情報が掲載されている。その中から、米国各地の医療費に関する部分を抜粋すると、以下のように医療費の実情が説明されている。
 

【ニューヨーク】
・米国の医療費は非常に高額です。その中でも、ニューヨーク市マンハッタン区の医療費は同区外の2倍から3倍ともいわれており、一般の初診料は150ドルから300ドル、専門医を受診すると200ドルから500ドル、入院した場合は室料だけで1日数千ドルの請求を受けます。

・例えば、急性虫垂炎で入院し手術後腹膜炎を併発したケース(8日入院)は7万ドル、上腕骨骨折で入院手術(1日入院)は1万5千ドル、貧血による入院(2日入院、保存療法施行)で2万ドル、自然気胸のドレナージ処置(6日入院、手術無し)で8万ドルの請求が実際にされています。

・治療費は、診察料、施設利用料、血液検査代、画像検査代、薬品代などとそれぞれ別個に請求されるので注意する必要があります。
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/medi/n_ame/ny.htmlより

【マイアミ】
・マイアミを含めフロリダ州は最新医療設備と技術を有する医療機関が多く、海外から最新の医療サービスを求め来訪する外国人も多く見られます。しかし、医療費は米国の中でも高額で、医療保険の有無により受けられる医療の質に大きな格差が生じています。

・医療保険に加入していない場合には、現金またはクレジットカードによる医療費の支払いが必要です。入院を必要とする際には数万ドルの保証金を請求されることがあります。集中治療室(ICU)に入院した場合は、1日当たり概ね1万ドルの医療費請求は普通です。1、2週間の治療で数十万ドルの医療費を請求されることがありますので、それに見合った医療保険の加入を強くお勧めします。
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/medi/n_ame/miami.htmlより

【ワシントンD.C.】
・医療訴訟が多い為、医師や病院が支払う損害賠償保険料が高くそれが医療費に跳ね返り、医療産業に従事する人(特に経営者層)の人件費が高いのと相まって医療費が非常に高額になっています。

・手術・入院費など米国の医療費は、非常に高額であり、海外旅行傷害保険等には、十分な補償額で加入しておく必要があります。
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/medi/n_ame/usa.htmlより

【ホノルル】
・救急車を利用する際には、911に電話連絡しますが、日本と異なり有料になります。救急車内での処置のレベルによって料金が異なります。毎年10%以内の料金の変更がありますが、2014年では移送だけで375ドル、高度の救急処置が必要な場合には450ドルまで料金に幅があります。

・医療費は日本に比べ非常に高額で、ICUへの入院や手術となると1,000万円を超えることも稀ではありません。 クレジットカード付帯の保険では不十分なことが多く,日本を発つ前に海外旅行傷害保険に加入することをお勧めします。 その場合,万が一に備え,治療費を無制限にするのが望ましいと考えます。
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/medi/n_ame/honolulu.htmlより



米国の医療費は高額である。グラフ1を見ても、米国の医療費が世界でも突出していることがわかる。
グラフ 1  対GDP医療費割合と1人あたり医療費の国際比較
ここには、医療という命に関わる領域を、「競争」、「自己責任」、「弱肉強食」の市場原理に委ねたことの矛盾が感じられる。

米国では医療費の決定に国が介入せず、医療費は当事者間の自治・交渉により決定される。しかし現実的には、医療プロバイダー側が圧倒的に知識・情報量で勝るのに対し、患者側は命・健康を守るためには医療プロバイダーの協力をあおがなければならないという非対称性がある。市場原理に委ねれば医療費が高くなることは自明のように思われる。

それに加え、米国では医療プロバイダーの人件費が高いこと、医療訴訟が多発するため医師が保険に加入したり余計な治療前検査を行いがちであることも、医療費を高騰させる一因であると言われている。
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松岡 博司

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