コラム
2013年01月04日

名刺のない暮らし-退職後の「生き方」「活き方」「往き方」

社会研究部 主任研究員   土堤内 昭雄

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私は今年還暦を迎える。友人の中には退職する者もいる。昨年8月の高年齢者雇用安定法の改正で、企業は2025年度に65歳までの雇用が義務化されるが、ビジネスパーソンはいずれ退職する。退職後の暮らしで大きく変わる点は、『名刺のない暮らし』が始まることだ。重松清著「定年ゴジラ」という作品に、退職したばかりの男性二人が挨拶するシーンがある。『二人は同時に上着の内ポケットに手を差し入れた。しかし、ポケットの中にはなにも入っていない。もはや名刺を持ち歩く生活ではないのだ。二人は顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑いを浮かべた』(「定年ゴジラ」講談社文庫、2001年)。

名刺には自分の名前の他に、勤務する企業名、所属部署、役職、連絡先など、少なくとも自分を語る上で最小限の重要な情報が書かれている。この小さな紙片を交換することで、お互いの社会的位置関係を把握し、その後のコミュニケーションが始まる。しかし、退職後はたった一枚の紙切れが無くなったことで、元ビジネスパーソンは会話の糸口さえ見いだせなくなってしまうことがあるのだ。

以前、作曲家の三枝成彰さんの名刺を頂いたことがある。そこには名前だけが書かれていた。政治家や有名人の場合、名前しか書かれていない名刺は多いが、退職後のビジネスパーソンは名前だけの名刺で生きていくことができるだろうか。仕事を離れ、地域や家庭にも居場所を見つけられないと、一体自分は「ナニモノ」なのかと不安になる。退職後はこれまでのキャリアや人間関係を踏まえ、これからどんな人生を歩もうとしているのか、自己アイデンティティを探すことが重要だ。会社の中での位置づけではなく、社会の中での新たな位置づけが必要になってくるのだ。

退職とは社会から退出することではない。これまで仕事を通じて築いてきた社会との関係性を、今度は個人として再構築する機会なのだ。経済的理由で高齢になっても働かざるを得ない社会は望ましいとは言えないが、いつまでも自己の能力を活かしながら年齢に制約されずに活躍できることは、超高齢社会にとっても、その時代を生きる高齢者にとっても極めて重要なことだ。

このような社会を実現するために、退職者はヒエラルキー型の企業社会ではなく、フラット型の地域社会の働き方を身につけることが必要だ。少子高齢化が進展し、退職者の役割はまだまだ大きい。長寿社会における退職後の長い高齢期には、『名刺のない暮らし』の「生き方」が求められ、退職後は会社のためから社会のために自己を活かす「活き方」が大切になり、それが人生の幸せな最期を迎える「往き方」にもつながるように思える。


 


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社会研究部   主任研究員

土堤内 昭雄 (どてうち あきお)

研究・専門分野
少子高齢化・家族、市民社会・NPO、都市・地域計画

(2013年01月04日「研究員の眼」)

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