2009年09月25日

杞憂と無謀の間で繰り返される金融危機

経済研究部 専務理事   櫨(はじ) 浩一

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昔、杞という国の人が、天地が崩壊するのではないかと心配で、夜も眠れず、食事ものどを通らないほどだったという話に、列子は、天が崩壊するかどうかは分からないのだから、心配するのは無駄なことだと笑ったという。ここから、杞憂という言葉が生まれたのだそうだ。
明日何が起きるのかは、誰にも分からない。確率は低いものの、ひょっとしたら人類が壊滅するような事件が起こるかも知れないが、それを心配してもどうしようもない。日本は安全な国だといっても、街を歩いていて事件に出くわすという可能性はゼロではない。飛行機に乗って旅行をしたり、自動車の運転をしたりすれば、事故に会う可能性は高まる。だからと言って、飛行機にも乗らず自動車の運転もせず、家から外に一歩も出ずに閉じこもっているわけにもいかない。我々は、こうした危険性に多少の用心はしているが、心配ばかりしていては何もできなくなってしまうので、そんなことはめったにおこることではないからと考えて、毎朝皆会社や学校に出掛けて行くわけだ。
杞憂の故事では、別の男が天が落ちてくることはないと言って安心させたことになっているが、列子は天地が崩壊しないと断言するのもまた間違いだと言っている。現在世界経済を100年に一度とも言われる大不況に陥れている世界的な金融危機は、「めったに起こらないが、起こると非常に大きな損失をもたらす」という類の危険を過小評価したことが原因だという指摘がある。経済の好調が長く続く間に、家計も企業も景気が悪化するという危険性に対する警戒心が弱まり、金融機関も格付けに頼って貸付先の破綻という可能性を甘く見るようになってしまった。恐慌の研究で有名なC.P.キンドルバーガーは、「熱狂、恐慌、崩壊~金融恐慌の歴史」の中で、投機が盛行すると合理
的な警戒は薄れてしまうようになるものだと言っている。歴史上金融危機が何度もおきていることを見れば、同じ過ちが繰り返されていることになる。
天地が崩壊することには対処のしようがないが、地震や台風などの被害には、予め多少は備えることができる。予測できない事態に怯えて何もできなくなるのも愚かだが、何が起こるか分からないという危険に無防備でいるのも余りに無謀だ。しかし万全の備えをするということと、取り越し苦労の差は紙一重だ。災害がおこらなければ、万一に備えた対応は過剰な反応で無駄だったと言われてしまう。杞憂と無謀の間を揺れ動く人間の行動が、繰り返し金融危機を引き起こしているとも言えるだろう。
杞という国は紀元前400年頃には滅んでおり、列子もその頃の人らしいので、杞憂という言葉も随分古くからあるもので、めったにおきない大きな危険にどう対応するかは、人類の永遠の課題なのかも知れない。

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経済研究部   専務理事

櫨(はじ) 浩一 (はじ こういち)

研究・専門分野
マクロ経済・経済政策

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