コラム
2009年07月06日

二つの「地方」

遅澤 秀一

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日本では「地方」という言葉は2つのコンテクストで用いられる。政治においては「国」に対する「地方自治体」であり、経済では「東京」に対する「地方」である。ところが、昨今の地方分権論議では都合のよいように「地方」が使い分けられているようだ。具体的には権限と財源の問題だ。

仕事や権限を国から地方自治体に移すには、当然、財源も移譲しなければならない。問題は、どれだけをどのように移すかだ。自前の財源だけでは、財務基盤が弱い地方は到底立ち行かないだろう。結局、東京から地方にどれだけ金をまわすかという問題になってしまう。今より減らせば立ち行かず、それ以前に地方の不満が爆発するだろう。しかし、今と同じでは、いつまで経っても自立できまい。そういうことであれば、地方分権とは、自治体の首長が国会議員や中央官僚に頭を下げずに、東京の金を地方によこせというのと同じことになってしまう。

地方分権になれば地方のニーズにあった行政が可能になるという論者も多い。しかし、現在、箱物行政がはびこっているのはすべて国の責任なのであろうか。そもそも、土建屋選挙で、箱物を作りたがる首長や地方議員を選んでいるのは有権者である。有権者はみずから望んでいるものをすでに手にしているのだ。現在と同じ財政規模で福祉を充実させるには、箱物行政からの脱却を図らねばならない。それには地方分権以前に、選挙権を行使することが先決であろう。永田町や霞ヶ関に高速道路の陳情に行く人達は、財源さえあれば道路を作ってしまいがちだからだ。

公共事業等を現在と同じ水準に保ちながら、福祉を今よりも充実させるのは財源を増やせば可能だが、これは地方分権になれば実現するというものではない。現在でも住民一人当たりの税金支払額に対する行政サービス額は、大都市圏よりも地方の方がはるかに優遇されているからである。地方分権論議は、結果としてパンドラの箱を開けてしまい、「大都市圏」対「地方」の対立の構図を鮮明にしてしまうかもしれないのだ。現在、国が間に入って見えにくくなっているが、本来、大都市圏の住民サービスに使われるべき金が地方の箱物に化けていることが明らかになれば、大都市圏の住民は心穏やかではいられないだろう。
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