2008年09月26日

再考、文化政策-拡大する役割と求められるパラダイムシフト -支援・保護される芸術文化からアートを起点としたイノベーションへ-

吉本 光宏

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日本の文化政策は、現在、大きな転換点を迎えている。1980年以降の文化政策の流れを振り返ると、80年代には地方公共団体の文化行政が本格化し、各地で公立文化会館が開設された。一方、「冠イベント」など広告・宣伝を目的とした民間企業の文化事業が活発となり、民間の文化施設も相次いでオープンした。しかし、80年代末には、諸外国から移入されたメセナやフィランソロピーの概念によって、芸術文化に対する民間支援の考え方が導入されるとともに、日本の文化政策が諸外国に比べて立ち後れていることなどが明らかにされた。
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90年には、芸術文化振興基金と(社)企業メセナ協議会が相次いで創設され、官民とも芸術文化に対する支援の基盤が整えられた。90年代半ばには、文化庁の「アーツプラン21」、(社)企業メセナ協議会の「助成認定制度」などによって、芸術文化に対する支援制度は大幅に拡充された。90年代の後半は、バブル経済の崩壊と長引く不況が民間の文化施設に大きな影響を与えたが、同時に、貴重なメセナ予算をいかに有効に使うか、という発想から、資金提供以外の方法も含め様々な戦略的メセナが開拓された。
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また90年代は、公立の文化施設が未曾有のペースで全国各地に整備された時代だった。ホール施設は1週間に2館のペースで、美術館施設は2週間に1館のペースで開館し、この10年間で3兆8,000億円の文化予算が建物の建設に投じられた。その結果、急増した文化施設の管理コストが年々ふくらむ一方で、ソフトに投入される予算は低迷が続いた。しかし、大都市では創造型の公立劇場・ホールが生まれ、地方都市では市民参加、ネットワーク、ボランティアなどの運営形態が、コミュニティに密着した新しい公立文化施設のあり方を生み出した。90年代の後半から活発になったアウトリーチは市民と芸術をつなぐ新しい回路や芸術文化の支持層「サイレント・パトロン」の構築に寄与している。94年には(財)地域創造が設立され、ハードに偏っていた地方公共団体の文化政策はソフト面からの活性化が図られるようになった。
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2000年以降、01年には芸術文化振興の基礎となる国の「文化芸術振興基本法」が施行されたが、行財政改革の進展によって、国立美術館・博物館などの独立行政法人化が進み、市場化テストの導入も検討された。また、地方自治法の改正によって指定管理者制度が導入されるなど、基本法に明記された文化芸術振興に関する国や地方公共団体の責務とは逆行するような公共政策の環境変化が進んでいる。とりわけ地方公共団体では、指定管理者制度が甚大な影響を与え、文化予算削減を加速させたが、運営団体の切り替えではなく、経営改革のツールとしてこの制度を利用しようという動きも出始めている。
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文化庁予算は80年代末から着実に増加し、03年度には初めて1,000億円を超えたが、その後は停滞し、諸外国と比較しても低い水準にある(国民1人あたりの文化予算は韓国の約5分の1)。地方公共団体の文化予算は93年度の9,500億円をピークに06年度の3,800億円まで急激に減少し、とくに、指定管理者制度の導入後は、市町村の芸術文化経費の落ち込みが大きい。それに対し、民間企業のメセナ活動費は、増減はあるものの90年代、00年代とも堅調に推移している。90年以降の芸術文化に対する支援制度の変遷をみると、文化庁の政策は新設、再編などが頻繁に行われているのに対し、芸術文化振興基金の助成制度は、創設以来18年間ほとんど改定が行われていない。一方、94年に設立された(財)地域創造は、戦略的な支援プログラムによって地方公共国体の文化政策に活力をもたらした。また、民間の企業メセナや助成財団からも、国に匹敵する規模の資金が芸術文化の支援に支出されている。
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国や地方公共団体の文化政策の課題としては、(1)芸術の創造や普及を促すインフラの整備、(2)戦略的な支援・助成制度の構築(ミッションの明確化と評価、再助成などの新たなしくみ、全額後払いなどの制度の見直し等)、(3)専門的な文化行政官やアーツカウンシルの設置、などがあげられる。一方90年代以降、民間企業や財団、(社)企業メセナ協議会が果たしてきた役割を振り返ると、国や地方公共団体の文化政策を牽引してきた功績が認められ、今後もそうした役割の継続が期待される。
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しかし、これからの文化政策には今までとは異なる新たな展開が求められている。その要因は、(1)文化政策の領域(ドメイン)の拡大、(2)文化政策の担い手の多様化、(3)文化政策と都市政策、産業政策との結びつき、の3点に集約できる。例えば、教育、福祉、医療、環境、防災など、文化以外の領域においても、芸術文化の効用が国内外で広く認識、立証されつつある。英国では、芸術文化を活用した「Find Your Talent」という週5時間の新しい授業が小中学校に導入され、コミュニティダンスが社会に浸透した結果、投薬の代わりにダンスの処方箋を出す病院もあるという。
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文化政策の担い手の多様化を先導しているのは、07年9月に2,000件を超えたアートNPOである。中でも中間支援型のNPOは、芸術文化の振興ばかりか、アーティストと教育や福祉を結びつけたり、アートによる地域再生に取り組むなど、各地で大きな成果をあげている。また、今年12月に施行される新公益法人制度によって、文化政策における財団や社団の役割はこれまで以上に高まるものと思われる。公益法人制度の改革にあわせて、08年4月には寄付税制も大幅に改正され、民間や個人からの寄付金が、公益財団・社団、認定NPOにとって新たな運営財源となる可能性が出てきた。
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90年代後半に英国で提唱された創造都市、創造産業の潮流は今や世界中を席巻する勢いで広がっている。横浜市や金沢市など、国内でも創造都市を政策に掲げるところが増えてきた。創造産業は、先進国ばかりか途上国でも今後最も成長が期待される産業と認識され、その潮流は、脱工業化時代の産業革命とも言える状況となりつつある。芸術文化の持つクリエイティビティは創造産業の中核的要素であり、今後の産業振興や経済成長にとっても重要な存在となってきた。国連も創造産業を中核とするクリエイティブ・エコノミーに関する政策レポートを発表し、この新しい経済活動によって、途上国は経済成長や雇用創出、貿易収支の改善だけでなく、ソーシャル・インクルージョンや文化的多様性も獲得できるとしている。
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こうした変化に伴って、芸術文化の役割はかつてないほど拡大し、文化政策にはパラダイムの転換が求められている。今後は、従来から実施されている「狭義の文化政策」だけではなく、教育や福祉などの行政分野、民間ビジネスにもつながる産業振興、そしてまちづくりや地域再生などを視野に入れた「広義の文化政策」の重要性が高まってくる。その広義の文化政策を牽引するのがアートNPOや新公益法人などであり、寄付税制の改正によって民間や個人から提供される資金が、それらの活動を支える新たな財源として期待される。
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文化政策はもはや芸術文化のためだけのものではない。従来の「狭義の文化政策」は、芸術文化の振興が主目的だが、「広義の文化政策」は、教育や福祉の充実、産業の活性化、地域の再生など、文化以外の政策分野において、芸術文化を活用しながらこれまでにない成果を得るのが主目的である。前者を担うのが文化庁や地方公共団体の文化振興部局とすれば、後者を支えるのは、文化以外の省庁や部局の目的達成に芸術文化を積極的に活用する視点や戦略と、芸術文化のクリエイティブな発想がこれまでにない施策や成果を導き出すというビジョンの共有である。
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狭義、広義の二つの文化政策は、中心と周縁の関係にあり、狭義の文化政策に投入されたリソースは、より広範な領域で大きなリターンとなって日本社会に還元される。そうした循環構造を視野に入れれば、狭義の文化政策に投入される予算や助成金は、日本の社会を改善するための「投資」と位置づけられる。そして、狭義の文化政策を強化し、広義の文化政策との間の循環を促進することによって、多様な分野で幅広い効果が生み出されれば、芸術文化やアーティストの社会的な価値や位置づけも公共的なものへと変容する。これからの文化政策には、そうした循環構造を睨んだ骨太の方針と戦略が求められている。
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これまでの文化政策やメセナは、芸術や文化は社会に支えられるべきものだ、という認識に基づいて推進されてきた。しかし、そうして支えられた芸術や文化が、逆に私たちの市民社会を変革する原動力となって、多様な分野でベネフィットをもたらし、同時に社会的なコストを軽減していく。そんな「アートを起点としたイノベーション」が実現しうる時代が到来しようとしている。芸術文化のクリエイティビティを活用し、文化政策を起点に日本を刷新していく、そうしたパラダイムの転換がこれからの文化政策には求められているのである。

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