1996年05月01日

欧州統合の歴史

細見 卓

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やがて世紀末を迎える20世紀を振り返ると、幾つか画期的な事柄があった。第一には、マルクス主義に基づく赤色革命があげられる。人類未踏の理想の社会主義国を建設しようとする試みが、ソ連とそれを中心とする共産国の崩壊によって、無残にも失敗、空中の楼閣と化してしまった。第二には、再度にわたる世界大戦によって数百万という人間の生命が奪われたことである。この戦いにおける強力兵器の追求は、遂に永久殺戮兵器ともいえる原子爆弾を出現させ、今後の本格的な大戦争を不可能にした。そして三番目には、これらにも比肩する大規模な歴史上の実験として、戦乱に明け暮れた欧州に、一つの統合された政治主体を生み出そうとしていることがあげられる。

既にマーストリヒト条約は批准され、統合完成の最終段階に入ったかに見えるが、統合の拡大と深度や各国通貨の統一を巡って、なお油断を許さない危機的な状況が続いている。しかしながら、欧州諸国の政治経済の統合に賭ける意志は、目前の激しい利害の葛藤にもかかわらず、なお強く生きており、最終段階への高まる緊張に欧州は深く包まれている。

日本から見て非常に印象的なのは、ASEAN統合の姿に比べて、欧州統合における政治家の果たす役割の大きいことである。ASEANは、いわば相互依存という経済的事実が先行して、それを政治的に受け入れていこうというものであるが、欧州における統合は、その初期の段階から、政治家達の政治理念と行動に大きく依存している。

例えば、ドイツのアデナウアーとフランスのドゴール、同じくシュミットとジスカール・デスタンといった政治家達のいわば畢生の事業としての取り組みなくしては、欧州統合もシューマンの単なる夢で終わったと考えられる。その間にあって、イギリスのサッチャー前首相や小国の首脳が果たした役割も大きく、EUが単なる理念的存在でなく、世界的な政治主体になるための具体的な詰めに大いに役立った。

こうした中で、現在のドイツのコール首相の欧州統合に果たしている役割は、特に大きく評価されるべきである。コール、ミッテランの蜜月関係は、事態の推移とともにとかくフランスが抱きがちな、欧州におけるドイツの優位に対する強い反撥を抑えるのに大きく貢献してきた。伝えられるところによれば、アデナアーはその昔、若き政治家コールに、自国旗に一度頭を下げるのであれば、フランスのそれに対しては三度下げろと諭したといわれるように、欧州統合は独仏間の過去の確執を越えた親密な関係なくしては実現せず、またそれは至難のこととされていた。せっかくの独仏融和も、ここにきて東西のドイツ統一、ドイツの中欧・東欧における顕著な優位さ等、フランスの猜疑心を煽ることばかりであった。その中にあって、独仏関係のひび割れとEUの崩壊を防ぐためにコール首相の果たしてきた役割は非常に大きなものがある。大国アメリカの信頼を勝ち取り、肌の合わぬイギリスにも迎合しながら、一つの欧州に向かってひたむきである。首相になった当時は、外国語である英仏両国語が自由に操れないこともあって、田舎政治家、暗愚の政治家とか経済音痴といった、およそ欧州を代表する政治家としての評価は受けなかったが、その後の十余年にわたる任期を重ねていくに従って、様々な悪評を乗り越えた。理想に走り過ぎるとの声も押し切って欧州統合にかけるその姿は、ドイツの巨人として再び国民の評価を高めている。

経済間隔を疑われた、東西ドイツ統一における常識外れの通過交換比率も、今や東西の人心融和にとってはかけがいのないものだったといわれている。財政赤字や公的債務残高についての厳しい統一通貨への参加条件の達成は、不況と失業に苦しむドイツ経済にとっては決して容易な選択ではない。高い失業率を抱えておれば、大規模な景気刺激策をとることが選挙を前にしていかに有利かは見通しているはずである。しかし、栄光のマルクを捨ててなお、統一通貨に向けた条件に合致するためににがい引き締め政策をとっていることは、単に人気迎合の普通の政治家ではなく、欧州統合に向け、ドイツの犠牲と自身の不人気をも厭わず、友邦に約束を守ろうとする強い姿勢の現れとして、ドイツのみならず、欧州全体から再び尊敬を勝ち得ている。

現在、欧州全体が高失業、低成長といった状況に陥っている中で、イギリスやイタリア等の地中海諸国は目先の景気回復に向け、財政による刺激策に眼が向きがちである。これに対し、コールはより遠くを見る目で自国と欧州の在り方を考えている。今や欧州中欧銀行(ESCB)の所在地もフランクフルトに置かれることになり、欧州全体が中欧に重心が異動していくことを考えれば、今日のドイツが行っている自己規制というものは、将来のドイツに大きな収穫をもたらすはずである。

欧州統合という人類史上初の試みに面し、コール首相に政治家の真の姿をみる思いであり、その成功を切望したい。かって、トクヴィルがアメリカ民主主義の欠陥として指摘したポピュリズム的政治手法が方々の国で蔓延する時代に、襟を正さしめる清涼な政治家がいまなお存在することは救いである。

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