1995年07月01日

個性重視の原則

  細見 卓

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世間を騒がせているオウム真理教の実態が明らかになるにつれて、いわゆる偏差値秀才の学卒者で精神的空白感のため入信している人達があまりに多いことに愕然としたというのが一般の受け止め方であると思う。中学、高校からひどいのは幼稚園から、ひたすらに偏差値の向上を目指して大変効率のよい特別教育で、子供の発育にとって最も大切な感性や悟性の発達がないがしろにされて育てられた結果であろう。

教育というものはその英語の語源が意味するごとく、個々の人間が持って生まれたものをいかに完全に引き出していくかということにあるのは当然である。世界の中でも大変効率がよいといわれる日本の小学・中学教育は、その教育効果を最大にするため、それぞれの個性に対する配慮を欠いた集団主義、団体主義的な教育に偏っているという欠点は識者の認めるところである。幼児から青年に至るまでの過程において、親の完全庇護から抜け出て、親との違いの認識、極端にいえば親を憎むことで少年の「自我」が確立されていくことは心理学の教えるところである。この大事な過程において自我の確立を考慮することなく、ひたすら知識の詰め込みと偏差値の向上を図っている現代の教育制度のもつ破壊的側面が、今回のオウム関連事件の大きな起因となったといわなければならない。同時にそういう効率主義競争における失敗ややり直しを認めない社会の冷酷さに付いていけない、いわば落伍者の悲惨さを世人に教えるものでもあろう。

日本社会は伝統的には非常に親愛と情愛に溢れた温かい社会であると考えられてきたが、社会の構造面では農村的集団主義から工業的個人中心の社会に基本的に変化している。こうした社会において最も必要なことは、個性を活かし、自由・自律を基本としつつ、自己責任の原則を貫く、すなわち個性重視の原則を確立することである。にもかかわらず、日本の教育は依然としてマンネリ化した集団主義的教育のままである。近頃になっていわゆるいじめの問題が大きく取り上げられているが、これもその根底には日本の近代化に伴う個を中心とした社会に適応できるよう、個性を育成していくという面が不十分な日本の教育制度の基本的な欠陥がある。

昔の制度を美化するわけではないが、昔はいわゆる反抗期の始まる中学から高校にかけての年代は旧制中学として一貫教育が行われており、その間に少年達の連帯感や相互庇護の関係と、いわゆるがき大将による秩序も生まれて、個人の尊重の確立と弱者の保護に役立っていた。反抗期における方向性のない凶暴性が目覚める時に、そういう時期を経験した上級生が身を以て指導できたということを評価する人が多くなっている。さらに旧制の高等学校が持っていた教育的意義も単なるエリート主義の排除として片づけられない貴重な役割を果していたようだ。つまり、反抗期を経て、やがて新しい自我を確立する最も大切な時に、当面の勉学にさほど煩わされることなく、人生の意義や将来について思い悩み、宗教や哲学に接する自由な時間を与えて、個性の確立に大きく貢献していたと思われる。

六三制の導入により確かに教育期間は長くなってきたけれど、その期間が効率主義による技術や知識の詰め込みばかりで、自分が何をすべきか、自分とは何かを振り返ることもなく、学業に追われている。従ってこの時期に最も大切な自我の確立や自己責任による個人主義の熟成に十分な配慮がされていない。その欠陥が今日、いろんなところに見えている気がしてならない。旧制高校三年の過程を経れば、自分は何をしたいのか、自分は何に成りたいのかを選択してその後の教育を役立つものにできた。しかし、今はそうした時期を経ることなく、ただ直線コースをより早く駆け抜けるよう仕向けられている。その競争に敗れたものは一様に落伍感を味わうという教育制度では、真に健全な多様な社会の確立は望みにくい。

社会が一本調子で発展し、拡大していた時にはこうした教育もあるいは有用だったと思われるが、世界経済がグローバル化したいわゆるメガ・コンペティッションの時代には、各々の国が自国の将来の発展とは何かを考えなければならない。そうした時代に、むやみに既定の路線を早く走ることのみを競わされてきた国民ばかりでは、国全体が壁にぶつかり、途方に暮れるということになる。日本の経済、政治そして社会の混迷を打破するためにも、「個性重視の原則」という教育改革の基本を思い起こさなければならない。

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